番外編競作 禁じられた言葉 参加作品
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本編20年前 ラーカディアスト帝国
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ゆるゆると西の空に陽が落ちて、流れる雲があざやかな朱金から薄墨色へとうつろうように染まってゆく。 「もう、いいかな」 さっきまで一緒にここに居た、大好きな父の大きな背中が、空から受ける光源が弱まって影の濃くなりつつある中庭に溶け込むように去っていくの眺めながら、少女……エリィはどこか悪戯な笑みを浮かべた。 「父さま、なかなか帰らないから、今日は行かないのかと思ったわ」 くすりと笑いながら、長く伸びた藍色がかった黒髪を邪魔にならないようひとつにまとめて結ぶ。 少女の小さな手でそれを成すには少し時間がかかったけれど、それでもこれから走るのには、そうしなければ動きづらいのだから仕方がない。 「できたっと」 楽しそうに一人ごちると、エリィは露台の手すりに脚を掛け、手近な木枝を頼りにひょいと中庭に降り立った。その、高さをものともしない身軽な所作が、まるで仔猫のようだった。 屋敷の出入口ではなく、わざわざ窓から抜け出すというのには理由がある。もちろん、出掛けるということが他の者には内緒だからだ。 今から出掛けて来るなどと言ったが最後、大勢の大人たちに止められて説教されるに決まっているのだから。 「……行ってきます」 もうじき部屋に戻ってくるだろう乳母に向かって小さく呟くと、エリィはくるりと身を翻すように走り出した。 自分をつつむ大気も緩やかに夜の闇へ移行していくというのに、まったく怖がる様子もなく、ましてや明かりさえ持たずに、彼女は父の後を追うように中庭を走り抜け、庭園の西端へと向かう。 同年代の子供たちであれば、闇の生まれるこの時間に来ることは決してないだろう場所。庭園を抜けたその先には多くの木々が立ち並ぶ森が広がっており、夜になると他所よりも闇が濃く降りそそいで、どこか怖ろしい雰囲気になる。 けれどもこの深い闇が、エリィは何故か心地よいと思った。少しもためらうことなく、森の中へと足を踏み入れる。 「エリィ。こっちだよ」 ふいに、木陰から少女を呼ぶ声がした。 やんわりとした少年の優しい声音に、エリィは驚いたように振り返る。自分を呼んだのが従兄のミレザだということは、姿を見ずとも分かった。 もうすぐ十歳になる、ひとつ年上のこの従兄は独特の、流れる旋律のように穏やかな声を出す。そんな声音の人間をエリィは他には知らない。 「ミレザ兄さま!?」 案の定、そこにいたのはミレザだった。天使のようだと人々から誉めそやされる子供らしい柔らかな美貌が、にこりと優しく微笑んでいた。 「……どうして、ここに居るのよ?」 ここにくる途中に何度か見回りの"大人たち"に見つかりそうになって、隠れたり迂回したりしながらここに走ってきたのだけれども。最後の最後で従兄に見つかってしまうとは ―― 。 エリィは拗ねたように、上目遣いに従兄を見やる。 「そんな顔しなくても大丈夫だよ。僕は止めに来たわけじゃないからね」 くすりと。少年はわずかに目尻の下がった翠色の瞳を細めて笑った。 「昨日の君の様子だと、きっと伯父上の後を追うだろうと思ったからね。一緒に行こうと思って待っていたんだ」 ミレザはやんわりと言った。 自分にとっては伯父。彼女にとっては父であるファレルが、近ごろ毎晩この森に出入りしているみたいだと、昨日会ったときにエリィは言っていた。 何しに行っているのかをひどく気にしていた彼女が後をつけるだろうと察するのは、ミレザにとっては至極簡単なことだった。 察してしまえば、そんな従妹を放っておくわけにもいかない。自分にとっても、この国にとっても。彼女は大事な存在なのだから ―― 。 「そっか。だからちゃんと明かりを持っているのねえ」 自分とは違って準備よくランプを持参してきている従兄に、エリィは可笑しそうに笑った。一人で森に入るのも別に怖くはなかったけれど、仲良しの従兄が一緒ならば更に心強いというものだ。 まして、大人と子供の歩幅のせいで、かなり父からは遅れていたのだから。これから探して追いかけるのも一人ではひと苦労だ。 「伯父上は十分ほど前に入っていったけれど、見失わないようヤシャに追わせてるから。行った場所はわかるよ」 楽しそうに笑って、ミレザは従妹の頭を軽く撫でる。止めることをせず、そうまでしてファレルを追おうというのだ。何のことはない。彼もまた、伯父が何をしに森に入っているのか興味津々だったのだろう。 「ヤシャなら、間違いないね」 エリィは優しそうな従兄の笑顔を仰ぎ見ながら、悪戯なグレイの瞳をぱちりと片方だけ閉じてみせる。 ヤシャとは、ミレザの飼っている鳥の名前だ。姿は隼に似ているが、人語を解す高い知能を持つと言われる霊鳥。このラーカディアスト帝国で、マセル公爵家の嫡子のみが飼い馴らせるという不思議な鳥だった。 「ほら、エリィ。見てごらん」 やわらかな紅茶色の髪にふわりと風を孕ませて、ミレザは従妹を促すように空を仰ぐ。つられてエリィが顔を上げると、闇色の木々のあいだから薄墨の空に、小さな影が浮かび上がるのが見えた。 「あの辺りに父さまは行っているのね?」 「そうだね。ヤシャが伯父上のところに先導してくれる。行こう」 「うんっ」 エリィは嬉しそうに笑ってミレザを仰ぎ見る。そんな無邪気な笑顔の従妹に淡い笑みを返し、ミレザは優しくその手をつなぐと、闇の濃くなりつつある森の奥へと入って行った。 しばらく二人は木々の間を縫うように歩いていた。 エリィの父がいる場所へと先導するよう低い位置を羽ばたくヤシャを見失わないように。そして暗い草道に足を取られないように。慎重にランプの明かりで前を照らしながら先を進む。 だいぶ奥に来たのだろう。樹木以外の景色がまわりに見えなくなって久しい。陽も沈みきったのか、二人を照らすのはミレザの持つランプの灯と幽かな三日月の月明かりだけになっていた。 「……ん?」 ふと、ミレザは何かの気配を感じたように立ち止まった。 ちらりと、何かまるい薄光のようなものが近くに見えた気がして、深い翠の瞳をほんの僅か細める。 「ねえ、エリィ。ここに伯父上が来ているということを僕以外に言ったかい?」 やんわりと。優しい笑顔のままでミレザは隣を歩く少女に訊ねた。エリィはきょとんと目を丸くして、ふるふると頭を振った。 「ううん。言ったのはミレザ兄さまだけだよ」 「そう。……じゃあ、その話を君は誰から聞いたの?」 「アルパ教師(せんせい)からよ。……立ち聞きだけど」 ぺろりと可愛らしく舌を出して、エリィは肩をすくめた。一昨日、エリィの家庭教師であるアルパが乳母のマリルに話しているのを聞いたのだ。 気になったから、父に直接その真偽を確かめてはみた。けれども、うまくはぐらかされてしまって何をしにいっているのか理由を聞くことは出来なかった。 だから、エリィはこうして今ここに居る。大好きな父のことはなんでも知っていたかったから ―― 。 「ふうん。……アルパを抱き込んだようだね、あの人は」 天使のような優しい笑顔にどこか剣呑さを宿し、ミレザはつぶやいた。 彼女の父ファレルはこの森に入った。それは自分もしっかりと見たのだから確かだ。"あの人"は嘘を吐くのではなく、事実を事実としてそれをうまく餌にしてみせたのだろう。 エリィの性格を良く知ったものならば、彼女をおびき出すのはこうも簡単なのだ。そう思い、ミレザは唇を噛む。 この小さな従妹 ―― エリィが"或る人物"から命を狙われていることを、ミレザは知っていた。 その人物はおそらく、父の秘密という餌にひかれて森にやってきた少女を野犬に襲われたように見せかけるなどして始末するつもりだったのだろう。 森から家に戻るファレルが愛娘のそんな無残な遺体の発見者になるだろうということも念頭に入れた計画。 "彼ら"にとっての誤算は、自分がエリィと一緒に居たということだ。……いや。自分がここに居ることを、むしろ好都合に思っているかもしれない。 エリィだけではなく、皇位継承権の上位に位置する自分。"彼ら"にとっての邪魔者を一度に消し去る好機にもなるのだから ―― 。 そう判断してミレザは苦笑する。 ラーカディアスト帝国で皇家の次に家柄が良いとされるマセル公爵家の嫡子ともなれば、自然に身に付くものなのだろうか。まだ十歳に満たない少年とは思えない、権謀に聡い鋭い洞察だった。 「どうかしたの、ミレザ兄さま?」 「うん? 物の道理を弁えられない大人というのは、とても哀れだと思ってね」 にっこりと。明るい笑顔でミレザはひとつ年下の従妹を見やる。音もなく、腰に帯びていた鞭を左の手のひらに握り込んだ。 「…………」 従兄の柔らかな笑顔の中に鋭さを見出して、エリィは自分たちが置かれている状況にようやく気付いた。さっと表情を引き締め口を結ぶ。 グレイの瞳を見開くように周囲をうかがうエリィの表情からは少女の愛らしさが消え、どこか中性的な印象になった。 「走ろう、ミレザ兄さま。父さまが居る場所に着けば、もう"彼ら"は私たちに手出しできないはずだもの」 「……そうだね。伯父上に合流するのが確かに一番安全だ。伯父上が居るのは、この近くのはずだしね」 前方に羽ばたくヤシャの様子に、確信するように笑む。 ほんの小さな子供でしかない自分が、たった独りで従妹と己自身を守りきれると思うほどミレザは愚かではない。だからこそ、エリィの父と合流するべきだと思った。 ラーカディアスト帝国最強の剣豪にして、至高の座に就く皇帝ファレル=シア=フュション。彼と真っ向からやりあって勝てると思うほど、"彼ら"も愚かではないはずだから。 周囲の気配を読むように感覚を研ぎ澄ませ、二人は機を見て走り出す。 不測の事が起きてもすぐ対応できるようにと気を配ってはいたけれども、その判断がいささか甘かったとミレザが気付いた時は、もう手遅れだった。 どんなに優秀だったとしても、まだ九歳の少年にすべての対応を期待するのは酷というものだ。 闇の中に息づく"彼ら"の気配に気を取られていたミレザは、刺客の放った獣が主人の命令どおりに少女の細い首に喰らいつこうと飛び掛ったことに、気付くのが一瞬遅れた。慌てて鞭をひるがえしても間に合わなかった。 「 ―― !!」 エリィは息を呑み、ぎゅっと瞳を閉じた。逃げようと思ったけれど、牙を剥く獣の獰猛な姿に体が竦んで動けない。 「エリィっ!?」 普段はほとんど声を荒げることのないミレザが、絶叫するように少女の名を呼ぶ。けれども、エリィはそれに応えることが出来なかった。 すぐにやってくるだろう痛みと死の影を彼女が覚悟したその刹那、ぱあっと。白い光が周囲を照らすように閃いた。 その光がゆるやかに輝きを失い、あたりに静かな闇が戻ったとき、そこにはエリィの姿も獣の姿も、どこにも居なくなっていた ―― 。 「……ここ……は?」 とつぜん視界をおおうように広がった白い光景に、エリィは呆然と呟いた。 いったい何が起こったのか。自分はどこに来たのか。まったく何も分からず、グレイの瞳が困惑に揺れる。 目の前に広がるのは、そこに在るはずのない氷の世界だった。 森を彩る木々の葉も。樹木にかこまれるように湧き出る小さな泉も。目に見える物すべてが凍りついた場所。厚い氷におおわれた泉はところどころで隆起して、水面に咲いた白と青磁の混じる氷の花弁に見えた。 吐く息も白い。けれども ―― 寒くはなかった。 先程の暖かな光が、まだ自分の身体をふうわりと包みこんでいるせいなのかもしれない。そう考えて、はっと、エリィは息を呑んだ。 獰猛な獣と刺客たちの中に、ミレザを独りで残してきてしまった。その事実に、ぶるっと身体を震わせる。 「……どうしよう、早く戻らないと!」 「大丈夫。あの少年も無事だよ」 不意に静かな声が聞こえて、走り出そうとしていたエリィは驚いて足を止めた。大きく目を見開いて、声の聞こえた方へと顔を向ける。 凍りついた泉と木々の間に溶け込むように、二十歳前後かと思われる若い青年が静かに佇んでいた。 「獣はもういないし、刺客もそろそろ片付いている頃だろうから」 じっとエリィの瞳を見つめるように、青年はそう言った。軽く首を傾けたその肩で、淡い水色の髪がぱらぱらと風に舞った。 「そう、なの?」 エリィは不思議そうに、青年の端正な顔を見つめ返す。 「もしかして、あなたが助けてくれたの? さっきのあの光……」 「あそこで血が流れると、この場所にも影響があるからね」 ふうっと。どこか機械的に彼は笑って見せた。 その無機的なまでに美しい笑顔に、エリィは思わず目を見張る。 こんなに綺麗な男の人は今まで見たことがない。否。女性でもこんなに綺麗な人など見たことがなかった。 肩の少し上で揺れる淡い水色の髪と、深く静かな青緑の瞳。同じ人間とは思えないくらいに美しく整った容貌も。どこか作り物めいたその笑顔も。彼女が生まれて初めて目にするものだった。 でも……とエリィは思う。どうしてなのだろう。青年のその人形のような表情が、どこか寂しげに見えた。 「影響があるって……ここはさっき私やミレザ兄さまが居た場所の近くなの? わたし、森の中にこんな氷に覆われた場所があるなんて知らなかった」 「そうだろうね。在る空間が違う。ここはあの森に最も近くて……最も遠い場所、かな。君たち人間の言う"魔界"の一部だから」 魔界といえば、世界の北の果てにある氷におおわれた大陸。かつて人間によって封じられた、魔族の住む場所なのだと、昔語りに聞いた事がある。 「ここは、魔界なの?」 きょとんとエリィは目をまるくした。あの森の中にそんなものがあるとは思いもしなかった。そして何よりも、ここが魔界というならば、この美しい青年は魔族ということになるのではないか? 「厳密に言うと、境界だよ。ラーカディアストにはね、いくつか魔界につながる境界がある。今も使えるのは、ここだけになってしまったけれどね」 青年の端正な頬をほのかな翳がかすめて消える。"魔界"と口にするとき、彼の瞳が寂しげに揺れるのをエリィは見逃さなかった。 魔界という名称は人が勝手につけた……ある意味蔑称だった。そこに住む者たちにとっては嬉しい呼称ではないのかもしれない。そうエリィは思う。 「そうなの……。でもそのおかげで、私もミレザ兄さまも助かったのよね。あなたがここに居てくれて良かった。ありがとう、お兄さん」 にこりと。エリィは明るく笑った。その表情は子供らしく無邪気だというのに、芯の強いグレイの瞳が強く煌いている。 まるで、そのまなざしに射抜かれるようだと、青年は思った。 「……どういたしまして。でも、私はあの少年を助けてはいないけれどね」 「えっ。でも?」 さっきミレザは無事だと言ったのに ―― 。 「私ではなく、他の者が彼を助けに行っているんだよ。……ふふ。やはりファレルの娘だね。眼差しが良く似ている」 慌てたように目を見張る少女に、彼は小さく笑った。 「父さまを知っているの?」 思いがけず出された父の名前に、エリィは素っ頓狂な声を上げた。父ファレルに、魔族の知人が居るというのは初耳だ。 「彼はよくここに来るから。来てはいけないと言うのだけれど、そういう他人の忠告を聞かないのだから困ったものだよ」 くすくすと。青年は楽しそうに言う。さっきまでの無機的な美しさとは違う、血の通ったどこか暖かさを感じさせる笑顔だった。 「もしかして、父さまはあなたに会うために毎日あの森に行っていたの?」 彼にそんな明るい表情をさせる要因が父にあるのだと悟り、エリィはなんだか嬉しくなる。青年は、淡く笑った。 「ああ。さっきまでここに居たんだけれど、今はあの少年を助けに森に戻っているよ。君のことは急を要したから、とっさにこちらに呼び寄せたんだ。驚かせてしまって悪かったね」 先ほど彼が言っていた『他の者』とは父のことだったのだ。それならば確かにミレザは大丈夫だろう。エリィは安心して、くすくすと笑った。 「ううん。助けてくれてありがとう! 私はエル……っ、エリィというのよ。お兄さんのお名前は?」 自分を助けてくれた青年。そして父の友人でもあるという彼の名前を知りたくて、エリィは仰ぐように青年を見やる。 「……ごめんね、エリィ。わたしたち魔族はね、簡単に人間に名を教えることは出来ないんだよ」 かつて起こった"或る一件"以来、魔族は人間にその名を明かさないようになった。力の強い魔族が名を明かすことは特に禁忌とされた。 「いまの君が"真実の名前"を他の人には言えないように、私もまた、むやみに名乗ることを禁じられているんだよ」 静かな笑みを浮かべたまま、けれども青緑の瞳を寂しげに細めて、青年はエリィの頭に手を置いた。 「 ―― !?」 はっと、少女は目を見開いた。 彼女にはエリィという呼び名の他にもうひとつ。その細い肩に重く圧し掛かるように架せられた本当の名前がある。そのことを知るのは、身内の中でもごく少数だ。 それを身内でもない、しかも魔族である青年が知っているということが、父と彼との親密さをあらわしているようで、エリィは少し悔しかった。 「父さまは、あなたのお名前を知っているの?」 「うん? まあ、ね……」 「じゃあ、教えてくれてもいいのに。お兄さんは私の本名を知っているのに、私は知らないというのはずるいわ」 拗ねたように口を尖らせるエリィに、青年は困ったように苦笑した。少女の真摯なグレイの眼差しが、じっと自分を見つめるのが痛い。 「……そうだね」 「…………」 その表情がひどく辛そうに見えて、エリィは自分の頭に置かれた青年の手に触れた。その手は氷のようで……けれどもどこか優しかった。 「ワガママ言ってごめんなさい」 相手に名前を告げることができない。それはエリィも同じだった。教えたくないわけではない。他者からそれを禁じられているのである。きっと彼も同じなのだろうと思った。 「でも、あなたのことなんて呼べばいい? "お兄さん"は他にもたくさん居るもの。ミレザ兄さまとかシュセ兄さまとか。だから……」 エリィはひっしと青年の顔を覗き込むように上を仰ぐ。 困らせたかったわけではない。ただ、ちゃんと相手の名を呼んでお礼を言いたかっただけなのだ。 そのまっすぐな眼差しに引き込まれるように、青年はふわりと目を細めて彼女を見やる。 「君が、好きなように呼んでいいよ」 本名ではないのだから、他にどんな名で呼ばれても変わりはないと思ったし、また、彼女がどんな反応をするのか興味もあった。 「私が、つけていいの?」 軽く青年が頷くと、エリィは少し考えるように軽く首を傾けた。そうして何かを思いついたのか、明るい表情で目を上げる。 「じゃあ、ダルティニスがいいわ。ユリルの建国神話に出てくる騎士の名前なのだけれど、私が一番大好きな人なの。知っている?」 「いや。その話は読んだことがないから」 「あのね、いつもユリルを陰から援けてくれる騎士なんだよ」 まるでさっきのお兄さんみたいでしょうと、エリィはくすくすと笑う。 この美しい魔族の青年を、おとぎ話の騎士にたとえるのもどうかとは思ったけれど。自分の大好きな名前で呼びたいと思ったのだ。 「……素敵だね」 青年はにこりと目を細め、静かな笑みを口許に佩く。淡い水色の髪が、ふわりと流れるように風に舞った。 「さてと。そろそろ君をファレルのところに帰さないとね。君と一緒に居たあの少年も心配しているだろうから」 ぽんぽんと、少女の濃藍色の髪を軽く撫でながら"ダルティニス"は言う。 いつまでも彼女を、氷におおわれたこの境界に置いておくわけにもいかなかった。今は自分の"魔力"で冷気から守っていたけれども、幼い少女の身体にまったく影響がないとは限らない。 「うん。父さまが森に来ていた理由も分かったことだし、ミレザ兄さまにも教えてあげないとね」 エリィは思い出したようにぽんと手を打ち、楽しそうに言った。彼もそのことに興味を持っていたのだから。早く教えてあげたかった。 「……エリィ。君は、ここに来たことを誰にも言っちゃいけない。もちろん私に会ったこともね」 細い人差し指をその唇にあてて、青年はじっと少女を見やる。泉に映りこむ森林のような青緑の瞳が、凛と強く煌いた。 「どうして?」 「この境界の存在を魔族に良い感情を持たない者たちが知れば、ここもまた他の境界と同じように使えなくなってしまうから」 エリィやミレザにそのつもりがなかったとしても、二人の間で話題にすればひょんなことで他者に知られてしまう危険性はある。だからこそ、エリィの父ファレルは愛娘にさえそのことを話さなかったのだろう。 エリィは彼の言葉を吟味するように天を仰いだ。ふと、氷におおわれた木々の隙間から、闇空に浮ぶ凍てつくような三日月の姿が見える。エリィはにこりと笑って、空から青年へと視線を移した。 「わかったわ。あの月に誓って、誰にも言わないって約束する。だから、また会いに来ても良い?」 月は、ラーカディアストの民にとっては尊き存在。月に誓った言葉は決して破られることはないと言われている。 それに誓うとまで言われて、青年はくすりと笑った。 「ありがとう。でも、ここに来ても良いとは言えないな。ファレルにも来るなと言っているくらいなのだから」 言いながら、けれども少しだけ何かを考えるようにうつむき、そうして再び顔をあげる。 「でも、いつかまた会えるよ。……そうだね、あの三日月に約束してもいい」 「えっ?」 凍りついた木々と泉に三日月の幽かな光が反射して、周囲の闇をやんわりと彩る。きょとんと、エリィは青年を見上げた。 「"ダルティニス"は、影から"ユリル"をたすける騎士なのだろう?」 悪戯な笑みをその美しい頬に浮かべて、青年は少女のグレイの瞳を優しく見つめ返す。 それにエリィが応える間もなく、ふわりとまばゆい光が周囲をつつみこむように広がった。眩しくて、一瞬エリィは目を閉じる。 再び目を開けたとき、そこには氷の世界はなくなっていた ―― 。 「エリィ!」 不意に少年の声がきこえて、エリィは声の方に顔を向けた。 従兄のミレザがこちらに駆け寄ってくるのが見える。その背後では苦笑するように、しかし優しい笑みを浮かべた父が立っていた。 「いきなり消えたから心配したよ。伯父上は大丈夫だと言っていたけれど。平気だったかい?」 無事を確かめるように、ミレザはじっと少女を見やる。その深い翠の瞳がひどく心配そうで、エリィはくすりと笑った。 「私は大丈夫だよ。ダルティニスがね、助けてくれたんだ」 「ダルティニスって……あの建国神話の騎士?」 ミレザはきょとんと目をまるくする。ダルティニスが、彼女の大好きな物語の騎士の名前だということは知っていた。 「うんっ」 「……そっか。エリィはいつもダルティニスに会いたいと言っていたからね。きっとそれで助けてくれたんだね」 嬉しそうな従妹の笑顔に、にこりとミレザも笑った。 おとぎ話ではあるけれども、ダルティニスはラーカディアスト建国の功労者であり、今は帝国の守護者になっていると云われている。 だからきっと ―― いつか皇位を継ぐはずのこの少女を助けたのだろう。ミレザはそう思った。 「さあて、そろそろ城に戻るとしようか、おまえたち。子供がこんな時間に黙って森にやって来た"オシオキ"も、きっちりしないといけないし」 ふと、低く落ち着いた声が二人の子供に降りそそぐ。だいたいの事情は察しているのだろう。可笑しそうにファレルが笑っていた。 オシオキと聞いて、エリィとミレザは互いに顔を見合わせて、ひどく情けない顔になる。 「二人とも無事に済んだとはいえ、危ない目に遭うきっかけを作ったのは確かだからなあ。たっぷりオシオキだ」 ファレルはわざと神妙な顔をして、二人の肩をぽんっと叩いた。そうして両脇に二人をそれぞれ抱えるように持ち上げて、にやりと笑った。 「ふふん。たまには親バカ伯父バカ気分を味あわせてもらうぞ」 ファレルは悪戯っぽく片目を閉じる。 子供とはいえ八歳・九歳にもなると、なかなかこんなふうに抱き上げる機会が減ってしまっていたのが寂しかったのだろうか。 「おおいに甘えろ。それがオシオキだ」 そう言って、ファレルは大きく笑った。 「お、伯父上!?」 「父さまってば……」 慌てたようなミレザと、照れたようなエリィの声。そしてファレルの笑い声が森の中にこだまする。 空には幽かな三日月が。そんな彼らを優しく彩るように。静かに淡い月光りを降りそそぐ。平穏のときは、もうしばらく ――。 『三日月の約束』おわり
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