『月に沈む闇』番外編
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本編6年前 ラーカディアスト帝国
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「エルレア様……」 揺れる馬車の中から夜空に浮かぶ月を見上げ、アステアは祈るように皇帝の名を呼んだ。 細かった月もそろそろ丸みを帯び、アステアが公都アトンを発ってからずいぶんと経っているのが目に見えてわかって焦燥感が増す。 最初は"この手"で『花毒を解毒する薬』を届けたいと思っていたアステアは、けれども馬に乗れない自分が馬車で向かうのでは時間がかかりすぎることに気が付いた。 すでに昏睡状態になっているはずのエルレアには、一秒でも早く薬を届けた方が良いに決まっている。 だからこそ、信頼できる護衛の一人にその薬を託して先に行ってもらったのだ。馬車で十日以上かかる帝国までの道のりも、熟練した騎手が早馬を替えつつ急ぎ向かえば、その半分でたどり着くことが出来る。 使者からは「薬を渡した」という知らせはあったけれど、機密にあたる皇帝の容体についての知らせはやはりなく、ただ祈ることしか出来ない自分が、アステアは辛かった。 「姫様、そろそろ到着します。皇宮には先に知らせを出しておりますので、すぐに入宮できますよ」 兄カイルが付けてくれた新たな侍女の言葉に、アステアはゆっくりと空から視線をおろす。 「今夜はザリアの街に宿泊するのではないの?」 「到着が夜でもそのまま皇宮に来るようにと、承っております」 知らせを出した際に、そのような返答があったのだと言う。アステアは小さく頷いた。 「分かりました。……帝国の方に、気を使わせてしまったようですね」 その指示を出したのが皇帝エルレアなのか、それとも他の者なのか。 どうか目覚めたエルレアであってほしいと、アステアは思った。 *** 「お待ちしていました。姫のことは私がご案内するよう言い付かっております」 皇宮でアステアを待っていたのは、皇帝の側近であるカレンだった。 アステアの姿を見ると華が開くように微笑んで、カレンは手を胸にあて優雅に礼をしてみせる。 いくら男性の服装を身に着けていても、天女の如き美しい姿でそれをされると 「……ありがとうございます。よろしくお願いいたします」 その美しさに気圧されつつもアステアが言葉を返すと、カレンは再びふわりと笑った。 「こちらへどうぞ」 月明りと 公王の娘として王宮で暮らしてきたアステアには、いま自分たちが歩いているのが通常は立ち入ることを許されない皇族の居住区域だというのは、その そうしてたどり着いたのは、皇宮の中心である皇城からは独立した場所に建てられた、大きな 月夜に照らされた外壁は淡い蒼に染まり、所々に細やかな彫細工がなされた美しい破風が趣深い。その周囲には緑の香る庭園が見渡す限りに広がって、とても静かで心安らぐ空気が流れているように感じられた。 「ここは皇帝陛下が時おり私的に使われている場所で、 カレンが静かにそう告げると、アステアに付き従っていた護衛たちは困ったように顔を見あわせた。 「えっ! 姫様だけで皇帝陛下の私室にですか?」 思わず侍女が驚いた声を上げ、心配そうにアステアを見上げてくる。そのあからさまな心配顔に、アステアは困ったように小さく笑った。 「陛下は立派な御方です。あなたが心配しているようなことは起こりません」 前回ザリアに来たときは『皇帝にその身体を差し出せ』と願うルキが一緒だったけれど、今回は違うのだということが、アステアの心を和ませた。 「ふふ。私も参りますのでご心配なく。姫君お一人を私室に呼び入れるほど、陛下は不躾ではございませんので」 カレンはどこか可笑しそうに、アステアとその侍女を見やった。 カレンの案内で邸内を進みながら、この宮はカレンと皇帝が共に過ごしている場所なのではないかと、アステアはふとそう思う。 皇帝の私的な場所というには、あまりにカレンの存在がこの屋敷にしっくりはまり過ぎているような気がした。 ―― 側近として、常に隣に侍る皇帝の寵姫。 不意にそんな言葉を思い出し、アステアはきゅっと右手で胸を抑えこんだ。何故だかちくりと、胸の奥が痛むような気がした。 手慣れた様子で邸内を進むカレンの姿を見ると痛みが増すように思えて。それでもその理由が分からずに、アステアはそっと視線を逸らすしかなかった。 「エルレア様。アステア姫をお連れいたしました」 ひときわ装飾が細やかに美しく施された扉の前で、カレンがそう声をかける。 ゆっくりと三つ数えるほどの間をおいてから、「入りなさい」とエルレアの声が聞こえた。 「 ―― っ!!」 よくとおる硬質なその声に、思わずアステアは息を呑んだ。 ザリアを発ったあの時に聞いた声と変わらず、力強い意志の宿る声。再びその声を聴けたのだということに、手が震える。 ゆっくり開くその扉の向こうに皇帝の姿を見つけ、アステアの青い瞳にみるみる涙が浮かび上がった。 開いた窓から差し込む月の光に照らされたその姿は少しもやつれた様子がなく、変わらぬ強いグレイの眼差しがこちらを見ていた。 私的な部屋に居るからなのか、以前会った時よりも少しラフな服装をした皇帝の、普段はきっちりと結ばれていた藍色がかった黒髪が無造作にとかれ、風に揺らめく様子はどこか涼しげだった。 「……陛下……ご無事で……よかった……」 このザリアを離れてからずっと、エルレアのことを考えなかった日はないとアステアは思う。 自分が与えた花毒のせいで死なせるわけにはいかないと。最初は責任を感じていただけのはずだった。 けれども ―― 力強く鮮烈な存在感を放つこの御方にもう一度会いたいと。強靭なグレイの眼差しを再び自分に向けて欲しいのだと。いつしかそう思うようになっていた皇帝の姿が、目の前に在った。 入口に立ち尽くしたまま、ぽろぽろと涙をこぼすアステアに、エルレアは困ったように苦笑した。 「……泣かれるとは思わなかった」 そう言いながらゆっくりと歩み寄り、エルレアは少女をあやすように金色の髪をそっと撫でる。 その表情は珍しく困惑しているようで、いつもの感情を見せない皇帝の顔とは違い、年相応に見えた。 「間に合わなかったらどうしようかと。ずっと心配しておりました……」 ぎこちなくも優しい皇帝の手のぬくもりを感じながら、アステアはふと、今の自分がこの上なく幸せに思う。こうして誰かに触れられることがこんなにも嬉しいと感じたのは、生まれて初めてのことだった。 「私のことは心配には及ばないと、言ったはずなのだが」 「そう言われて……本当に心配しない者などおりません……」 アステアは止まらない涙を必死に抑えようと頑張りつつ、思わず反論してしまう。どこか自分自身に対して無頓着にも見える皇帝が、心配だった。 その瞬間、ふっと、皇帝が笑ったような気がした。 驚いて顔を見上げると、エルレアは楽しげな笑みを浮かべ、アステアを見ていた。 「確かに、その通りだな」 肩を揺らすように、エルレアはくつくつと笑う。 初めて会った時は猛獣の前に引きずり出された仔兎ように震えていた少女が、自分を心配して拗ねたように反論してくる様子は、なかなかに健気で愛らしかった。 「……あ……」 皇帝陛下はこんなふうに笑う人だったのかと。思わずアステアは目を見張る。 常に強く鋭い刃のような印象の皇帝だっただけに、普通の二十二歳の若者らしいその柔らかな笑顔は、ひどく心に残った。 「 ―― 泣き止んだようだな」 柔らかな表情のまま、エルレアはぽんっと、アステアの頭で軽く手を弾ませた。 そうしてそのまま少女をソファに座らせると、自分は向かいの席に軽く腰を下ろす。 「ジェスダール公王の件は、残念だった」 皇帝はその死を悼むようにアステアを見た。 自分を殺そうとした相手だというのに、こんなにも気遣ってくれるのかと。アステアは再び泣きそうになる。それを必死に押し隠し、ゆるゆると首を振った。 「仕方のない……事でした。陛下はお気になさらないでください」 あのあと逃げた従者は捕らえ、御璽や国璽は取り戻せたけれど、けっきょく話を聞く前に、その者は自害して果てていた。 父ジェスダ―ルを唆した相手が分からずじまいになってしまったのは悔しかったけれど、アステアにはどうすることもできなかった。 「ジェスダールが最後に言ったのは『西の聖なる』だったな? それだけ聞ければ十分だ。見当はついている」 皇帝は誰かの姿を思い浮かべたようにグレイの双眸を怒りに染め、けれどもすぐに表情を消す。 「だれ、なのですか?」 アステアは震えを抑えるように、きゅっとドレスを握り締めた。 愛情を注いではもらえなかったけれど、ジェスダールはたった一人の父親だった。それを思うがままに動かし、用済みとなれば躊躇なく殺した"相手"は怖ろしく、そして許せなかった。 「……貴女が知る必要はない」 「はい?」 意外な言葉を聞いたように、アステアはきょとんと皇帝を見返した。 エルレアはただ静かに。けれども強い意志の宿る眼差しをアステアに向けていた。 「知ればおのずと渦中に嵌る。己の身を護るすべのない者は、知るべきではない」 じっとアステアを見やるグレイの双眸は鋭く強い眼光を放ち、けれどもどこか優しい彩に見える。 「……わかりました。もう、訊きません」 それは都合のいい思い込みかもしれない。それでも、皇帝が自分のことを気にかけ、案じてくれているのだと思えば、それを拒否することは出来なかった。 何の力もない自分が知って何かをできるはずもなく、逆にエルレアの邪魔になる恐れさえある。それは、避けたかった。 「 ―― 今は無理だが、いつかあの 強靭なグレイの双眸がさらに強い意志を宿し、凛とアステアを見やる。 「だから姫は何も気にせず、エンジュで穏やかに過ごしなさい」 「……陛下」 細身の身体から放射されるその圧倒的な存在感と、意志を宿した強靭な眼差しに魅入られたように、アステアは息をするのも忘れ、皇帝の瞳を見返した。 この方の傍で自分がそれを手伝い、お支えすることが出来たらいいのにと、心からアステアは思う。 それを伝えたいと願い、けれども皇帝の背後に佇むカレンの姿に、凍ったように口を噤んだ。 エルレアの隣には天女のごとく美しいカレンが居る。自分などが出る幕はないのだと、苦しく切なく思う。 そう ―― 思ったことで、アステアは初めて自分が皇帝を異性として見ていたことに、気が付いた。 父ジェスダールが言ったように、いつのまにか自分は皇帝に。この強くまっすぐ前を見据える眼差しに魅入られてしまったのだと、自覚した。 水中で溺れたかのように息が苦しくなり、思わずアステアは手を伸ばし、皇帝の腕をつかむ。 「私は ―― 」 「アステア姫、解毒の薬はありがたく受けとった。貴女の親善使としての役目は無事に終わった」 エルレアはいつもの感情を見せない皇帝の顔をして、そう言った。けれども鋭い眼光とは裏腹に、自分をつかんだアステアの手を、そっと優しく外させる。 「エンジュでは、カイル公王が貴女の帰りを待っているだろう。しばらく 小さく笑んで、エルレアは音もなくソファから立ち上がった。 そのまま窓の方へとゆったり歩みを進め、もう用は済んだとばかりにアステアに背を向けた。 「……ありがとう……ございます」 不意に身にまとう空気が変わった皇帝に、アステアは振り絞るように言葉を返す。 聡明な皇帝には、あの一瞬で自分に向けられたアステアの想いに気付いてしまったのだろう。だからこそ、それに応えられないことを、ああして態度で示しているのだと、アステアは悲しく思った。 月を見上げるその背中はどこか優しく、けれども静かな拒絶の彩が見てとれた。 「陛下の今後のご活躍を……砂国エンジュより、ずっと……お祈り申し上げます」 自覚すると同時に終わってしまった自分の初恋に、けれどもアステアは必死に笑顔を浮かべ、そう告げる。 「どうか……お健やかにお過ごしください」 「 ―― 貴女も」 エルレアは振り返ることなく、短くひとことそう答えた。 それは皇帝の優しさなのだろうとアステアは思う。最後に顔を見られないのは少し寂しかったけれど、アステアは名残を惜しむように皇帝の私室を後にした。 *** 「……気丈に笑ってれおられましたが、だいぶ気落ちされていたように見えましたよ。最後くらい、笑って差し上げればよかったのに」 アステアを客殿に送り、蒼昊の宮に戻って来たカレンは、大きな机に寄り掛かるように外を見ていた皇帝に声をかける。 「私は、彼女が望むような相手にはなれないからな」 ふと苦笑を浮かべ、エルレアは小さく息をついた。そのグレイの眼差しは、珍しく自嘲の彩が浮かんでいた。 「……その カレンは皇帝の隣に立つと、そっと頬をつつむように右手を伸ばし、気遣うようにその顔を覗き込んだ。 「いや。ただ、あんなにも健気に私の身を心配する姿を見ると、少し気の毒でな」 アステアの気持ちに気付く前はそれが愛らしく楽しいと思ったが、気付いてしまえば申し訳なくもなる。 どこか自嘲するように、皇帝は口端をあげた。そうして机の引き出しから小さな瓶を取り出すと、手の上にのせる。 それは、アステアがエルレアの身を案じて贈った、ルーンの花毒を解毒する薬。けれどもその中身は、一滴も減ってはいなかった。 「ルーンの花毒がエルレア様には カレンはやんわりと微笑んで、皇帝の首許を隠すように巻かれたクラヴァットに触れる。そのことを知る者は、帝国上層部でもほんの僅かだった。 「……まあ、いつかは、教えられるかもしれないな」 ふとエルレアはグレイの瞳を細めるように笑った。 「儚そうに見えて、なかなか芯が強い。あの姫が居れば、エンジュも少し変わるかもしれん」 過酷な環境に在ってもなお、健気に可憐に花開く強さを持っている砂漠の花。その二つ名は、外見だけではなく本当に彼女に似合っているとエルレアは思う。 「彼女がいま思い描くような相手ではないが、いつか"良き友"になれるだろう」 「ふふ。砂国エンジュが帝国にとって良きパートナーとなれば、再び道が交わることもあるでしょう」 現在のような庇護対象ではなく、わずかでも帝国に利をもたらすような存在となる頃には、皇帝陛下に抱いたアステアの"想い"も、きっと淡い思い出となっているだろう。カレンはそうなることを祈った。 「だから ―― エルレア様。あなたはただ、信じる道を行けばいい」 不意に口調の変わったカレンの、森林のような青緑の瞳がじっと皇帝を見やる。その眼差しはエルレアの強靭な双眸と同じく、強い意志が宿って見えた。 「ああ。じきに五騎士もザリアに戻ってくるだろう。そうしたらまた、忙しくなる」 ダーレイ大陸の統一と、その先に望む未来への道程を思い、エルレアは静かに笑った。 「やるべきことは、多いな」 すっと、ラーカディアストにとって至高の存在である月に向かって腕を伸ばし、エルレアは強く見据えるように夜空を仰ぐ。 まだ満月には少し届かない、ゆるかやな丸みを帯びた十三夜の月が、静かに。帝都ザリアをつつむように優しい光を投げかける。 見据えた先に希む道は ―― まだこれから。 『砂漠の花と月の王』 終
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