『月に沈む闇』番外編
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本編6年前 ラーカディアスト帝国
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「緋炎、おまえはどう思った?」 長い廊下を進みながら、振り返ることなく皇帝は背後に従う青年に問いかける。 「碧炎の推測した通り、あの者の本意ではないのでしょう」 緋炎の騎士も歩みを止めることなく応え、獲物を狙う黒豹にも似た琥珀の双眸に鋭い色が立ち上がる。 「ですが、油断はされませんよう。本意ではないにせよ、あの者が陛下を狙っていたのも確かで、その方法がまだ判明しておりませぬ」 「ああ。分かっている」 くすりと笑って、皇帝は立ち止まった。 「夜の相手に誘われるのを待っているようなドレス姿でもあったからな。そこで襲撃する予定だったのかもしれん」 砂漠の薔薇とも称される美しい姫君の、胸元と腰の細さを強調するような華やかで艶のあるドレス。好色な男ならすぐにでも食らいつきたくなるだろう。 「……娘の美しさを利用するとは、父親のすることではないがな」 三日前、砂国エンジュからの親善の使者としてアステア姫が訪れたと聞いたときは、まさかと思った。 前皇帝が崩御し、エルレアが即位してからこの四年間。年始や節々の挨拶に来るのは公国の重臣のみで、公王の一家が来ることはなかった。 エルレアとしても大陸の統一戦争に重きを置いていたため、かの国の無礼などを気にしている暇はなかったが、いきなり姫を送ってくるというのは逆に怪しすぎた。 「ジェスダール公王は愚鈍そうな男でしたが、そこまで度胸のある者には見えませんでした。おそらく彼を唆した輩がいるのでしょう」 ルーヴェスタの琥珀の双眸が、剣呑さを増して宙を睨む。 「……ああ。おそらく、あの聖人ぶった エルレアは一瞬、ぎりっと唇を噛んだ。前皇帝である父を死に追いやったのも、その者たちだった。 「だが今回の件で奴らの尻尾までは掴めんだろう。とりあえず今は、あの姫と砂国エンジュの今後の始末を考えよう」 あの姫が正直に話すのならば良し。 言わないのであれば、それなりの対処を ―― 。 「どちらでも構わないが、できれば穏便に済ませたいものだ」 感情を消したように静かに吐き捨てると、皇帝は再び長い廊下を歩き出した。 *** ふうっと、アステアは大きな溜め息をついた。 皇帝と話したあの部屋からこの客殿に戻ってきた夕刻から降り出した雨も、ようやく収まったようだった。 雲も薄くなってきたのか、空には少しずつ星たちが見え始めている。 雲の隙間から顔を出した大きな丸い月も、闇夜を照らすように優しい輝きを地上に投げかけていた。 「月は、ラーカディアスト帝国の象徴だったわね」 ラーカディアスト帝国の紋章に、美しい「月と稲妻」が施されているのは誰もが知っていることだった。 月は、この帝国にとっては至高の物であるという。 そして稲妻は、アステアたちが住むこのダーレイ大陸がこの世界に誕生したきっかけとなったものであると、神話語りに伝わっていた。 「……この国が月なのだとしたら、やっぱり太陽とは相容れないものなのかしら」 アステアの祖国。砂国エンジュの紋章には太陽が描かれている。 月と太陽。夜と朝。正反対の物を崇める両者が交わることはなく、諍いしか生まれないのかもしれない。 「……陛下」 露台の手すりにそっと身体を預けるように寄り掛かり、アステアはその青い瞳を震わせるように閉じた。 目に浮かぶのは、強靭な意志を宿したグレイの瞳。その目で見られただけで圧倒されるように、強い存在感があった。 今回のジェスダールの企てを気付いているようなのに、アステアを責めたてるでもなく、常に礼を保って接してくれていたことを思い出す。 「間違っているのは……きっとお父様ね」 王国として独立したい父の気持ちは分からないではない。けれども、アステアの知る限り、ラーカディアストの援助失くして国が立ち行かないのも事実だった。 それを、皇帝の暗殺などという無謀な策に打って出た父は、やはり正気を失っているとしか思えなかった。 「…………」 考えれば考えるほどに重くのしかかる重責と、深い愁いに押しつぶされそうで、アステアは救いを求めるように空に浮かぶ明るい月を見やる。 その視界の端に、ふわりと光の筋が見えたような気がして、アステアはゆっくり反対の空へと向き直った。 「あれは……虹?」 そこに在る幻想的な光景に、思わず感嘆の声を上げる。 雨上がりの夜空に大きな弧を描くように、淡い虹がかかっていた。陽の下で見るあざやかな色彩とは違う、優しい光のような橋。 「 「えっ?」 不意に下の方から柔らかな男性の声が聞こえて、アステアは驚いたように声の方へと視線を向けた。 「急に声をかけてすみません。夜虹を見たことを、誰かと共有したかったもので」 楽しそうな声は、アステアが立っている露台の下に広がる庭園から聞こえていた。そこに一人の青年が佇んでいるのが見えて、アステアは首をかしげた。 月明りに照らされたその青年の顔は、まだ若い。肩のあたりまで伸びた金色の髪が、風に揺れてなびく様子はどこか気持ちよさそうだった。 「……いえ。確かにきれいな光景ですもの。あれは、夜虹というのですね」 少しの驚きを残したまま、アステアはふわりと笑った。確かに、あんなにも幻想的で美しい景色を見てしまったら誰かと分かち合いたくもなる。 見たところ騎士のような装いをしているので、おそらく庭園内の巡回警備中だったのだろう。 客殿に居る人間に対して騎士がとつぜん話しかけるのは不躾かもしれないが、こんな夜は、それを咎めるのも無粋だった。 「……アステア姫。月と太陽は、相反するものではありません」 ふと、金の髪をしたその若い騎士は、やんわりと語りかけるように言う。 この青年が、先ほどの自分の言葉を聞いていたのだと気が付いて、アステアは息を呑んだ。 誰もいないと思って不用意に発した言葉も、すべて聞かれていたのかもしれない。 それはとても危険なことであるようにも思えたけれど、アステアはその言葉の続きが聞きたいと、何故かそう思った。 「でも、同じ空に存在することは出来ないではありませんか」 その事実は変わらない。だから、帝国とエンジュが並び立つことも出来ないのだと。アステアは切なくなる。 「いいえ。僕たちの目に映る空が夜の時でも、違う誰かの見上げる空には太陽があります。月も太陽も、同じ空で違う役割を持った盟友のようなものですから、どちらがなくても困るでしょう?」 ふわりと、騎士は笑った。その優しい紫色の瞳は、アステアの愁いをすべてを知っているかのように穏やかな光を浮かべてこちらを見上げていた。 あの騎士が、自分を慰めているのだと気が付いて、アステアは小さく笑う。 「……ありがとう、ございます」 ほんの少し心が軽くなったような気がして、アステアは感謝を込めて青年を見やる。その左肩で外套を留めるブローチが、月と稲妻をモチーフにしたものであることに気が付いて、アステアはあっと声を上げた。 「もしかして、炎彩五騎士の方……ですか?」 この国の紋章である「月と稲妻」は、皇帝と炎彩五騎士しか身に着けることが出来ないと聞いたことがあった。 「はい。紫炎の騎士、ラディカ・ローセアと申します。静かな夜をお騒がせして申し訳ありませんでした。僕はこのまま客殿の警備を続けますので、どうぞゆっくりお休みください」 にこりと笑って、青年は礼儀正しく頭を下げると、そのままゆっくりと巡回を続けるように去っていった。 アステアはその背を見送りながら、くすりと小さく笑った。 自分の周りにはいつも炎彩五騎士がいる。監視するためなのか。それとも本当に警護の為なのかは分からない。 けれども ―― 何故か、嫌な気はしなかった。 「……違う役割を持った盟友、か」 紫炎の騎士の言葉が、耳元で静かによみがえる。その言葉は、アステアが欲しかった言葉なのかもしれない。 「……そうね」 露台の手すりをぎゅっと掴み、アステアはゆっくりと目を閉じる。そうして再び開いた青い瞳は何かを決意したように、どこか晴れやかな彩が浮かんでいた。 「今日はもう遅い。……明日の朝、すぐに話をしに行きましょう。今ならまだ、エンジュの国を滅ぼざずに済むかもしれないわ」 もう一度、夜空に架かった淡い光の橋を見つめ、アステアは勇気を奮い起こすように静かに笑った。 |
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