『月に沈む闇』番外編
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本編6年前 ラーカディアスト帝国
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美しい砂岩で築かれた外壁の上で、青年はじっと南の方角を見つめていた。 少し離れた眼下に広がるのは、ぎらぎらと太陽が照り付ける広大な砂の大地と、千人ほどの屈強そうな男たち。 頭から湯気でも出ているのではないかと思えるほどに熱気に満ちたその様子は、離れた場所から見ても意気高揚しているのが分かる。 それぞれの頭に巻かれた白いターバンがゆらゆらと陽炎と揺れて、砂漠に生まれた湖面のようにも見えた。 「あれが噂のジェスダールの兵士か。確かに、勇猛そうだ」 その光景をじっと見つめていた琥珀色の双眸が、鋭く笑むように細められた。 獲物を狙う黒豹のような眼差しは、わずかに相手への敬意が浮かぶ。強い敵という 「公王に捧げられたあの忠誠心は感嘆に値するが、主君がそれを受けるに値しない暗愚な王だったのは残念なことだがな」 皮肉げに口端をあげると、青年はゆるりと漆黒の髪を揺らすように頭を振った。 このダーレイ大陸の大半を統べるラーカディアスト帝国に、突如として牙を剥いた砂国エンジュの公王ジェスダ―ル。 これまで何十年と帝国の庇護と援助を受けてきた小さな公国が、何を思って反旗を翻したのか。その気概だけは買ってやらないでもない。 けれどもその無謀な気概と戦意は、巻き込まれる民にとっては傍迷惑なものでしかないだろう。 「緋炎、アオからの連絡は来たかい?」 不意に声をかけられて、緋炎と呼ばれた青年は砂漠を見ていた視線を声の方へと向けた。 地上から壁上につづく階段をゆったりとした様子でのぼってくる男の姿を見出だして、琥珀の瞳が僅かに笑う。 「橙炎か。珍しく、気が急いているようだな」 優雅な歩調で近づいて来る青年の、あざやかな紅茶色の髪と美しい宝玉にも似た翠の瞳は、天使のようだと誉めそやされる優しげな美貌も相まって、虫も殺せないほどの慈悲深さを醸し出している。 けれども、その見た目と性格が違いすぎることも、長年の付き合いでよく知っていた。 普段の彼ならば、そんなことを聞くためにわざわざ出てきたりはしない。 「……まあ、早くあれと戦いたいのは確かだね。たった千人の兵しかないのに、炎彩五騎士の軍旗を前にして、あそこまで戦意を保てる精神力はすごいから」 紅茶色の髪をした青年はにっこりと微笑んで、南の空へと視線を向ける。 一見すると爽やかな笑顔。けれどもその深い翠の瞳に浮かぶ眼光だけが、冷たい殺気を放って眼下に広がる兵たちを見つめていた。 ラーカディアスト帝国が誇る最強の騎士。炎彩五騎士と呼ばれる五人の騎士は、緋炎・橙炎・碧炎・紫炎・白炎という、それぞれが炎の色にちなんだ称号を持つ。 先ほどから敵兵を見据えていたのは、五騎士の主座でもある緋炎の騎士、ルーヴェスタ・カイセード。 闇夜を切り取ったような漆黒の髪と、獲物を狙う黒豹にも似た琥珀の瞳が独特な威風を周囲に与え、帝国兵たちの熱狂的な支持を受ける男だった。 「公王への忠誠心が恐怖心に勝っているのだろうが、相手としてはやっかいだ」 ああいう輩は、全滅するまで戦いをやめないことが多い。緋炎はうんざりしたように漆黒の髪を揺らす。 「ふふ。エルレア陛下に対して刺客なんてものを送ってきたお馬鹿な公王とその配下には、十分その償いをさせないと」 暗に全滅させればいいのだと、優しげな微笑みを絶やさずに残酷なことをさらりと言ってのけるのは、橙炎の騎士ミレザ・ロード・マセル。 帝国で皇家の次に家柄の良いマセル公爵家の嫡子であり、皇帝エルレアの従兄でもある彼は、皇帝に敵対する者に対しては容赦をしないことでも知られていた。 ちろりと笑むその表情は、穏やかなのにどこか怖ろしい。 「おーまえは、ほんっと顔に似合わずアブナイ奴だよなあ、橙炎」 ふと、背後から明るい声が聞こえたかと思うと、二人の間に大きな身体が割り込むように並び立った。 にこにこと笑うその顔は、やんわりと人懐こい。 「……戻ったか、碧炎」 無造作に肩を組んでくる腕を邪魔そうに外しながら、緋炎は静かに闖入者に目を向ける。 今までこの男は、作戦遂行の準備としてこのオアシスの街バーティアから出掛けていたはずだった。 「ああ、たった今ね。帰ってくるときに壁上に二人の姿が見えたから、こっそり上って来たんだよ」 碧炎と呼ばれた青年はぱちりと片目を閉じて、楽しそうな笑顔を見せた。その健康的な美しい褐色の肌は、南方に広がる砂漠の兵たちとよく似ている。 それもそのはずで、碧炎の騎士ゼア・カリムは、もともとはこの砂国エンジュの出身だった。 子供の頃にラーカディアストに移住したので、生国といえどたいした思い出はないし、ほとんど愛着もなかったが。 「首尾は?」 その明るい表情から察っすることは出来たが、しっかり己の口で報告しろと促すように、ルーヴェスタは琥珀の鋭い眼光を僚友に向ける。 「もちろん、整ってるさ」 碧炎の騎士は、 「どうやら今回の叛乱は、本当に突然ジェスダール公王が始めたことらしい。多くの者が困惑していたぞ」 「ふーん、そう。だとしても、宰相以下首脳陣はみんな同罪だと思うけどね」 橙炎ミレザは、意味のない報告をする碧炎の顔を可笑しそうに見やる。 困惑しようが何をしようが、結局は誰も公王を止められなかったのなら、帝国に反した事実は変わらない。 「刺客という贈り物を陛下に献上してきたくらいだから、彼らはよっぽどこの世から消え去りたいのだろうし。その願いは叶えてあげないと可哀そうだ」 何も知らない者が見れば、本当に その瞳の底にちらちらと揺れる狂気にも似た眼光だけが、彼の怒りの深さを示していた。 卑劣な手をつかって皇帝を亡き者にしようとした公王ジェスダールは、ミレザにとっては既に"排除するべき者"だった。 「橙炎、この 「もちろん、陛下の御言葉には従うさ」 皇帝自身から止められなければ、ミレザは公王ジェスダールを血祭りに上げて、その血縁すべてをこの世から消し去ろうとさえ思っていた。 しかし皇帝エルレアが出した指示は、公国の滅亡ではなく不穏分子の捕縛。だからこそ、わざわざこのバーティアの街までやってきて面倒な根回しをしているのだ。 「……でもまあ、戦場では何が起こるか分からないけれどね」 ふっと、ミレザはその宝玉のような瞳を細めて、五騎士の主座でもある緋炎の騎士を見やる。 「 じっと見据えてくる翠の眼差しを軽くいなすように、ルーヴェスタは興味なさげに吐き捨てた。 緋炎が主座とはいっても、彼らのあいだに上下関係はない。とくに戦場では己の判断ですべてを決めるのが炎彩五騎士だった。 「公王は戦場には出て来ないって。そのために俺が動いてたんだから。出て来られたら、本当にジェスダールの兵たちは全滅するまで戦うことになるだろうが」 好き勝手に言う僚友たちに呆れたように頭を振って、碧炎ゼアは溜め息をつく。物騒な事ばかりをいう橙炎ミレザのその怒りは、理解できなくもない。 普段通りの怜悧な表情を崩さない緋炎の騎士からも、その根底には公王ジェスダールへの静かな怒りが見て取れるほどだ。 「あんなふうに刺客を送ってきた卑怯者への怒りは分かる。だが、約束は約束だ」 ゼア・カリムは、なだめるように橙炎ミレザの肩を叩く。 炎彩五騎士として名を馳せてはいるものの、この橙炎はまだ二十三歳という若さだ。己の怒りを抑えきれなくとも仕方がない。 「……ふふ。 にっこりと、ミレザは笑った。その翠玉のように雅やかな眼差しが、じっと、街側の壁下に向けられている。 「何を見てるんだ?」 その視線がやけに熱心で、碧炎も同じ方向に目を向ける。 そこには、乾いた大地に癒しを与えるように美しく咲き誇る、赤い花があった。 「ああ。砂漠の薔薇と呼ばれているらしいな、あの花は」 橙炎の視線の先を見やり、碧炎の騎士は苦笑するように そもそもの事の起こりは、二十日ほど前。 帝都ザリアに、あの花のような美しい姫君が訪れたことから始まった。 それを思い出すように、碧炎の騎士ゼア・カリムは、縹色の瞳をそっと伏せた。 |
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