▲ 番外編4----『仮睡』----------------▼
燦々と降りそそぐ陽の光に軽く目を細め、ショーレンは空を見上げた。
まだ早朝だからなのか、明るさの割に放射されるその熱は柔らかで、ゆうるりと流れる風が心地よい。
そのまっさらな蒼が広がる天空に溶けるように浮かぶ薄雲を眺めながら、ショーレンは楽しげに口許に笑みを佩いた。
「散歩日和だな、レスティ」
闊達そうな藍色の瞳に笑いをにじませて呟くと、傍らにレスティを伏せて待たせ、スニーカーの紐を固く結びなおす。
こうしてショーレンが愛犬と散歩に出掛けるのは久しぶりのことだった。
彼がアルファーダからこちら側に戻ってきて、もう二週間ばかり過ぎている。けれども今までは後処理やら何やらで忙しく、ショーレンは自由に動けなかったのだ。
その前だってしばらくアルファーダにいてレスティとは顔もあわせていない。もう何週間ぶりかになるご主人様との散歩が嬉しいのか、レスティは言い付けどおりに伏せたまま、けれども尻尾をふさふさとしきりに揺らして今か今かと出発を待っている。
「おはよう、アルディス」
「え? ああ、セスさん。おはよう」
ふと頭上から聞こえてきた声にショーレンが振り仰ぐと、人好きのする独特な笑顔を浮かべたセスが、階上からこちらを見おろすように手を振っていた。
「これからレスティの散歩かい?」
かつんかつんと軽やかな足音を立てながら、セスは階段を下りてくる。
「久しぶりに時間が取れたから、ちょっと体を動かそうかと思って。最近ファーヴィラに任せっきりだったしさ」
足許に伏せる愛犬の頭をわしわしと撫でてやりながら、ショーレンは明るい表情で隣家の青年を見やった。
自分の留守中に妹のファーヴィラがいろいろと世話になったらしいということは伝え聞いていたし、もともとこの誠実そうなコラムニストがショーレンは好きだった。
「そっか。今は大変な時だものな。アルディスたちも苦労するなぁ」
奇妙な縁から他のどの一般大衆よりも先にアカデミーの真実を知ることとなった青年は、同情するように紅茶色の目を細めた。
ロナやルナに依頼されてアカデミーの真実を人々に伝えるべく働いたセスも、今は微妙な立場にいることは違いなかったけれど、当の研究所に所属する者たちに比べれば、自分の忙しさなど何のことはないだろう。
「まあ大変ではあるけど、べつに苦労ではないよ。今のアカデミーの立場は総統たちが決めたことであると同時に、俺自身も望んでいたことだからな。逆に楽しい……なんていったら不謹慎か」
意志の強い眼光をその藍い瞳に閃かせ、ショーレンは笑った。
魔術研究所と科学技術研究所。この二つのアカデミーの最高位に就くロナとルナによって、すべての真実は人々に伝えられた。
それによって人々の間に生まれた動揺と不信。そして不安。
今まで無条件で信じ、頼ってきたアカデミーという存在の虚偽を知り、そしてレミュールというこの地がどのように存在していたのかを教えられた人々は、まるで人生最大の災厄に見舞われたように動揺した。
けれども、それも長くは続かなかった。
人々の生活にとって魔術研と科技研の存在は必要不可欠であり、過去のどういう経緯でふたつの組織が生まれたのかなど、大した問題ではなかったのである。
ましてや、レミュールを壊滅の危機から救ったのは、二つの組織を代表するともいえる、ショーレンやティアレイル等五人のアカデミー員たちだったのだ。
以前のように全幅の信頼を置くことは出来ないにしても、いきなりアカデミーを否定したり不要だなどと言い出す者はいようはずもなかった。
アルファーダとレミュールの間に起きた過去の事件も、そして流月の塔が果たしていた役割も。すべてを知ったにもかかわらず、時間が経つにつれて人々の心から罪悪感や怖れは薄れていき、過去は過去と割り切ったようにさえ見えた。
あまりに自分たちの生活とは掛け離れたその事実を、己のこととして捉えることが難しかったのかもしれない。しかし人々のそんな思考の流れは、ロナたちにとっては大きな誤算だった。
「思ったより、風当たりは強くないしな」
靴紐を整えてすっくと立ち上がったショーレンは、自分の隣に歩み寄ってきたセスに軽く肩を竦めてみせた。
一般の人々のその淡白でアバウトな反応は、怒涛のような非難と混乱を覚悟で真実を発表したロナやルナが、思わず苦笑したほどだ。
確かに最初は混乱も動揺も起き、両アカデミーを非難する言葉も叫ばれはしたけれども、たった二週間のあいだに人々は少しずつ己の中で精神的な再建を果たし、街は普段の平静さを取り戻し始めていたのだから。
人はロナたちが思っていた以上にしたたかで……。
それとも、両アカデミーがすべてを保障してくれるという安穏で気楽な生活にどっぷりと浸かりこみ、その便利さになれた人々には、それが失われることのほうが過去の罪よりも恐ろしかったのかもしれない。
「ほんと、意外なくらいに淡白というか、立ち直り早いよなぁ、みんな」
セスはそう言いながら、自分のアカデミーに対する認識も、以前とたいして変わっていないのだと気付いて軽く苦笑する。
彼が見た限りでは、自分たち一般の人間よりも、かえってアカデミーに所属していた者たちのほうが、己の存在意義を問うて大きく動揺しているような気がした。
「だからこそ、これからが俺たちアカデミーの正念場なんだろうな。総統たちはもう少し周囲が落ち着いてきたら、少しずつアカデミーの規模を縮小するって言ってたし。人々の意識改革も必要になってくるから」
ショーレンは軽く息を吐き出すと、魔術・科学両派の前に山積みになった問題を見つめるようにひとりごちた。
レミュールがこのまま以前のとおりでいいはずがない。それは、アルファーダで実際に自分が経験し、見聞したことを考えれば明らかなのである。
今回の三月(みつき)の異変をめぐる一件で訪れたせっかくの転機を無駄にする気など、ショーレンにはなかった。
「たぶん、あいつらも改革にむけていろいろ考えてるんだろうな」
こちらに戻って来てから、忙しさのせいでまだ一度も顔をあわせることが出来ていない魔術派の面々を思い浮かべ、ショーレンはくすりと笑った。
自分やアスカの提唱した科学魔術相互扶助論を、今後のレミュールでどう生かしていくことができるのか。それを皆でゆっくりと話し合いたいと思った。
「このあいだ俺が魔術研にお邪魔した時、彼らも同じようなことを言っていたよ。今日も話があってこれから行くんだけど、何か伝えとくかい?」
「いや。いいよ。伝言よりも直接話した方が早いからさ」
「それもそうか。こんなことは伝言ですむようなものじゃないだろうしね」
セスはショーレンの藍い瞳を頼もしげに見やり、にこりと笑った。
まだしばらくは人々が両アカデミーに頼ってしまうという風潮は消えないし、実際にアカデミーなしの生活はありえないだろう。
けれども、彼らのように強さを持った者たちに導かれれば、自分たち一般大衆の心の奥底にまで根付いた『アカデミー任せ』な思考も、少しずつ変えてゆくことが出来るかもしれない。
「……まあ、自分らの意識改革さえアカデミーの力を借りないと出来ないっていうのも、なんだか情けない話だけどなぁ」
無意識のうちに、どこまでも他力本願なことを考えてしまった自分自身に呆れたように、セスは大きく頭を振った。
「これまでの体制が体制だからな。長年培われた思考はそう簡単に切り替えられるもんじゃないさ。いきなり『これが真実です。さあ、考えろ』って言われても、みんな困るだろうし」
ショーレンは軽く腕を組むように空を見上げ、そしてセスに視線を戻す。
「でも、科技研はそんな丁寧に導いていくつもりはないよ。時には荒療治もあるかもしれないが、基本的にはおおまかな流れをいくつか提示するだけだ。強制されるのじゃなく、人が自分から変わっていかなければ、何をやっても意味がないからな」
深い海の底のように藍い瞳が真剣な表情を宿し、セスをじっと見やる。その表情がふと、少年のような明るい笑みに和んだ。
「これからの時間はたっぷりあるんだから、焦る必要はないしな」
「ん……。そうだな」
闊達な笑みの中に浮かびあがるショーレンの前を見据える強いまなざしに、セスは感心したように頷いた。魔術派の象徴と謳われたティアレイルもそうだったけれど、こういう目を見ると頼りたくなってしまう人心も分からないではない。
「まあ、俺に協力できることがあったら言ってな。コラムや雑誌記事なんかで文章を書くことくらいしか出来ないけどさ。けっこう効果あるんだぞ」
ぱちりといたずらっぽく片目を閉じて言うと、セスはひらひらと手を振ってショーレンから離れていく。
「ああ。ありがと、セスさん」
軽く手を上げてセスを見送ると、ショーレンは楽しげに笑った。
「あの人を見てると『ペンは剣よりも強し』って言葉も、あながち嘘じゃないって気がしてくるよな」
くすくすと笑いながら独りごちたショーレンは、ふと、なにやら切なげな視線を感じて、そちらに目を向ける。
その先には、なかなか散歩に出発してくれない主人を上目遣いに見上げるレスティの姿があった。
「うわ。悪いレスティ。もう行くから拗ねるなって」
じっとりと拗ねる愛犬の眼差しに笑いをこらえて謝ると、ショーレンは弾むように歩き出す。
「久々だし、足を延ばして海まで行くか」
にっと笑って愛犬を見やると、レスティはその言葉が分かったのか、嬉しそうにわふっと吠えた。
40分ほどの軽いジョギングで海にたどり着くと、ショーレンはその海よりも藍い目を楽しげに細め、レスティのリードをはずしてやった。
普通の海岸ならば人がぼちぼち出始める時間なので犬を自由に放すことなど出来ないけれど、ここは科技研所有の海岸だ。
海洋研究などをする為に所有している海岸ではあったけれど、時々こうしてショーレンはレスティを連れて来ては自由に遊ばせている。
それはショーレンだけでなく、他の所員たちもよくやっていることで、総統であるルナは笑いながら黙認していた。
「ほら、レスティ」
持ってきていた青いゴムボールを、ショーレンは砂浜に向かって思いきりよく遠くまで投げる。彼の愛犬お気に入りの遊び道具だった。
レスティはしなやかな金色の身体を伸びやかに躍らせて、嬉しそうにそれを追いかける。
その姿を眺めながら笑んだショーレンの目が、ふと、どこか遠くを見るように懐かしげに細められた。
陽の光をまとうように柔らかな金にきらめく愛犬のその姿は、つい二週間前まで自分がいたアルファーダを思い出させる。
向こうで初めて見た不思議な生き物。鳥のような顔をした愛嬌のある馬。金のたてがみを持ち、颯爽と駈けたパルラ。
そして、それに乗っていた元気の良い少年のことを ――― 。
「リューヤのやつ、元気にしてるかな」
いつもパルラに乗ってアルファーダのあちこちを行き来していた少年の、いたずらな笑顔を思い浮かべながら、ショーレンはくすりと笑った。
今ごろはきっと『大好きなイディア様』と一緒に、アルファーダ復興への願いを胸に静かに暮らしているのだろう。
「イディアがいれば、それだけで幸せなやつだからなぁ」
ゆうるりと目を細め、ショーレンは蒼穹を仰いだ。
今はもう、こちら側にも真の陽が射している。眩い太陽を頂いた空を見渡せば、レミュールもアルファーダも何も変わりがないように思えた。
東西を隔てる二重結界はあのときロナとルナによって解かれ、実質的には互いの行き来も可能になっている。ショーレンがその気になれば、すぐにでもリューヤたちに会いに行くこともできる。
けれども、急な人口の流入によって起こる環境の激変を懸念し、そしてまたイディアやリューヤとも話し合い、未だアルファーダへの道は閉ざされていた。
いつまでも封鎖するつもりはないけれど。今はまだ、かの土地には休息が必要なのだ。それに……少しずつ。ゆるやかにアルファーダは甦るべきだ。
レミュールの人間が土足で踏み込んで、魔術や科学の力でやたらと復興させればいいというようなことではない。
アカデミーが縮小を計り、たとえ多くの権限を失ったとしても、それだけは譲ることの出来ない政策だった。
「ショーレン、ここにいたんだね」
凛とした声に笑みを乗せて、ルフィアがこちらに歩いてきていた。その足許には誇らしげにボールを咥えたレスティが、ゆっくりと彼女を先導するように歩いている。
「レスティに連れて来てもらっちゃった」
にこりと笑いながら、ルフィアは犬の頭を撫でた。ちょうどボールを拾ってショーレンのもとへ戻ろうとしていたレスティを呼び止め、ここに案内してもらったのだ。
レスティは頭を撫でてくれたルフィアを一度だけ見上げ、けれどもすぐに大好きなご主人様に向き直る。
きちんと行儀よく座ってボールを咥えた顎を高々と差し上げるその仕草は、なんとも言えず可笑しかった。
ちゃんとボールも取ってきたし、主人の客人も案内してきたのだ。いっぱい褒めてもらえるはずだという期待のまなざしが、ありありと見える。
「いい子だ、レスティ」
その期待に応えてやるように笑顔でボールを受け取ると、ショーレンはレスティーの身体を抱くように思いきり撫でてやった。
「相変わらずショーレンにべったりだね。レスティは」
ご主人様一番! といいたげな友人の愛犬に、ルフィアはくすりと笑った。
「こいつと遊んでやるのも久々だからな。今までの分もかまって欲しいんだろう。それより、ルフィア。俺を探してたのか?」
「うん。アスカくんが久しぶりに科技研に来てるんだよ。昨日ショーレン言ってたじゃない? 相互扶助論をもっと詰めて考えたいって。だから話したいかなぁと思って」
色違いの瞳にゆうるりと笑みを浮かべ、ルフィアはショーレンの顔を覗き込むように上を仰ぐ。
「そっか。ありがとな、ルフィア。もしかして、けっこう所内を探したか? 今日は休み取ってたんだよ、俺。このあと魔術研に行こうかと思ってさ」
ショーレンはさりげなく長身を屈め、ルフィアに無理のない高さに視線あわせると、申し訳なさそうに苦笑した。
「大丈夫。珍しくショーレンが休みを取ったっていうのはウィスタードに聞いてたから。家に連絡しようと思ったのよ。その前にレスティを見つけたからここに来たんだけどね。それにしても、魔術研に行くために休みを取ってたなんてなぁ」
魔術研の就業時間でも気にせず科技研にやって来るアスカと、休みを取って魔術研に行こうとしていたショーレンの性格の違いに、ルフィアはくすくすと笑った。
訪れるその目的は互いに同じく、レミュールの今後についてをいろいろと話したいのだろうけれど ――― 。
「ねえ、ショーレン。これから、レミュールはどうなっていくんだろうね」
ルフィアは色違いの瞳に真剣な表情を宿し、ふと長身の青年を見上げた。
人々の心に浸透しきったアカデミーという存在を生活から切り離し、規模を縮小させていくことは、それを浸透させることよりも遥かに困難だろうと思う。
そんな先の見えない改革を、これから自分たちはやっていかなければならいのだ。覚悟は出来ているけれど、ほんの少し。迷いもあった。
「ルフィアの考えてるような未来さ」
普段は凛とした輝きを持つ彼女がそんな弱音を漏らすのは、そこにいるのが付き合いの長い友人だからこそだ。それが分かっているのか、ショーレンは軽く手の中でボールを弾ませながら、力強く笑った。
「……え?」
「先は見えなくても、自分の選んだ道を進むしかないからな。だから……それで行き着く未来がどんなものでも、そこは自分の信じた場所だろう?」
きょとんと目を丸くした科技研随一の女性技師に、ショーレンは軽く片目を閉じてみせる。
人々の生活を支えてきた二大組織の規模を縮小することが、本当に正しい選択なのか否か。それはショーレンにも分からなかった。そして、おそらくそれを決めたロナやルナにも確信はないのだろう。
けれども、このままアカデミーがすべての上に君臨するように存在していては、何も変わらないということだけは、確かだった。
「出来ることからやる。それしかないさ」
「ふふ。ショーレンらしいなぁ。でも……ホントそうだよね」
自分の心底に澱むように存在していたほんの少しの不安が、ふわりと霧散したような気がして、ルフィアは晴れやかに笑った。
「それに、これからは魔術研と科技研が協力していくんだもの。いい方向に進めるといいよね」
「おっ? 魔術研との協力が嬉しそうだな、ルフィア」
明るさを取り戻した友人の笑顔に、ショーレンはからかうように快活に笑う。
一瞬、何をからかわれたのか解らなかったルフィアは、けれどもすぐにその意図に気が付いて、思わぬ弱点をつかれたように息を呑んだ。
「そ、そんなことないよっ」
慌てたように言いながら、その頬がほんのり赤く染まっている。
「まあまあ。人間正直が一番だぞ。特にあいつはそういうのに疎そうだしな」
ショーレンはおかしそうに声をあげて笑いながら、真っ赤になってしまった友人の頭をぽんぽんと叩いた。
「さてっと、アスカが待ってるんだよな? そろそろ行くか」
「……レスティはどうするの?」
軽く唇を尖らせたまま、ルフィアは友人とその愛犬を交互に見やる。
「コントロールタワーには入れられないからな。研究棟の俺の部屋に連れてくさ」
まだ遊び足りなさそうな愛犬を軽く撫でてやりながら、にやりと、どこかの悪がきのように目を細めてショーレンは笑った。
「もうしばらく我慢しろな、レスティ。あとでめいいっぱい遊んでやるから」
これから確実にレミュールを襲うであろう大きな嵐の前にほんの僅か訪れた、ゆるやかでおだやかな日常。ひとときの仮睡にも似たその時間を楽しむように、ショーレンは大きく伸び上がって、高く青い空を見上げた。
どこまでも広がるその天空から、アルファーダとレミュールすべてを見つめる眩い太陽が、柔らかな日差しを地上に投げかけていた。
『仮睡』 おわり
|