降り頻る月たちの天空に-------第3章 <2>-------
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 ▲ 第3章-------<2>----------------▼


 アルファーダの町々は、どこかぎすぎすした雰囲気に包まれた『朝』を迎えた。
 まるでイディアの憎悪がアルファーダの全生命に大きな影を差しているように、人々も動物も自然も、すべてが生彩を欠いて見える。
 幸福な色に染められた童話世界のようだったこの町も、今は何もかもが色褪せたように感じられた。
 あのリューヤでさえ、しゅんとうなだれたまま湖から離れようとしなかった。
 リューヤは、イディアがいなくなる瞬間をその目で見てしまったのだ。
 あの時 ―― 彼が湖に駆け付けた時、燃え盛る聖殿の中にイディアはまだ居た。静かに窓辺に立ち、二つの瞳はどこか遠い空を睨むように冷たい輝きを宿していた。
 そこから感じられるのは、吹き荒れる憎悪。激しすぎる哀しみが紅蓮の炎の中で憎悪に形を変えた……そんな眼差しだと、リューヤは思った。
 いつも自分に穏やかな瞳を向けてくれたイディアとはあまりに違うその様子に息を呑み、一瞬、声を掛けるのが遅れた。
 そのほんの一瞬のうちに、イディアはいなくなってしまったのだ。
 炎が巨大な鳥のように空を舞い、聖殿が最期の咆哮をあげながら、湖の中へと崩れ落ちる。その時すでに、イディアはいなくなっていた。
 あの時、すぐに声を掛けていたら? そうしたらイディア様はいつもみたいに微笑んでくれたかもしれない。優しく、リューと呼んでくれたかもしれない ―― 。
 そう思うと悔しくて……悲しくて、リューヤは固く唇を噛んだ。
「リューヤ、いつまでここにいるつもりだ?」
 ショーレンは少年の頭にぽんと手をおき、隣にしゃがみこんだ。いつも誰よりも元気なリューヤを知っていたから、そのあまりに沈んだ今との落差が痛々しかった。
「イディア様が帰ってくるまで」
 チラリと目を上げショーレンを見ると、リューヤはそう応えた。いつものいたずら少年特有の活発な黒い瞳が、捨てられた仔犬のように思える。
 くしゃっとリューヤの髪をかきまわすと、ショーレンはあざやかな笑みを口許に佩いて立ち上がった。
「こんな所で待ってるより、迎えに行った方が早いと思うぞ。イディアはきっと方向を見失って、帰って来れないでいるのさ。だからリューヤが迎えに行って、こっちだよって教えてやんなきゃな」
「…………」
 アルファーダを想うゆえの激しい悲しみと、優しすぎるそのひととなりが、イディアを憎悪の渦へと導いたのだろう。そうショーレンは思った。
 その憎悪こそが、レミュールに月を落すのだという。けれども……たった1週間ではあったけれど、その人物に接し、また彼を心酔するリューヤの話を聞いていたショーレンには、イディアの本意が破壊だとは、なかなか思えるものではなかった。
 イディアの憎悪が何に向けられているものなのか ―― 。
 それは自転停止の本当の真実……そしてイディアが何者であるのかを知らないショーレンには分からない。だからこそ、そんなふうに楽観できたのかもしれなかった。
 リューヤはちょっと俯き、ショーレンの言葉を心の中で噛み砕くように考える。そして、ゆっくりと顔を上げた。
 その言葉が比喩であることは分かったが、それは案外名案であるような気がした。
「イディア様を呼ぶのには『様』をつけろって言っただろ」
 少しだけ、いつもの闊達な瞳を取り戻し、リューヤはぷんっと口を尖らせる。
「まあ、今回は許してやるけどさ」
 言って、照れくさそうに横を向いた。自分が後ろ向きな思考に走っていては何もならない。そう思った。
 そしてふと、リューヤは気が付いたようにショーレンの顔を仰ぎ見た。
「アルディスは、もうみんなとレミュールに帰っちゃうのか?」
 背後に停まるイファルディーナを見て、不安な表情が少年の瞳に海のように広がった。ここでショーレンまでいなくなったら、あまりに心細い。
 ショーレンは軽く少年の頭をたたくと、明るく笑った。
「まだレミュールには帰らないよ。俺たちは流月の塔に行く。そこに、もしかしたらイディアもいるかもしれないな。……一緒に、行くか?」
「行くっ!」
 リューヤは間髪いれずに応えると、ぴょんと立ち上がった。
 最後にイディアと話をした時、何があっても町から出るなと言われていたが、彼は初めて『イディア様のお言葉』に逆らおうと思った。
 リューヤにとってイディアの言葉は絶対だったけれど、それがイディア自身に関わることであれば話は別だった。
「イディア様のお手伝いをするって、おれはずっと決めてたんだもん。道に迷われてここに……在るべき場所に戻って来られないのなら、お迎えにいかなきゃなっ」
「ん。そうだそうだ」
 にこりと笑って、ショーレンはリューヤの頭を思い切りなでてやると、背後に待つイファルディーナに向かわせる。
「 ―― !?」
 焼け落ちた聖殿をぼんやりと眺めていたティアレイルは、イファルディーナに乗り込むリューヤに気付き、信じられないというようにショーレンを振り返った。
 今のイディアは少年の知っている穏やかな優しい青年ではないかもしれない。憎悪を解放し、レミュールへの復讐に身を委ねている狂気の人かもしれないのだ。
 そんなイディアがいる場所へ、彼を慕っているリューヤを連れて行くのはリューヤを傷付けるだけではないか?
 ショーレンは意志の強い笑みを浮かべ、ティアレイルの前に立った。
「リューヤにとっては、どんなイディアでも『大好きなイディア様』だよ。それにあいつは強いからな。平気さ」
「…………」
 深い信頼の込められたその言葉に、ティアレイルは軽く唇を噛んだ。
 本当は、流月の塔に行きたくないのは……イディアに会うのが嫌なのは、リューヤではなく自分なのだ。
 イディアと出会ってからずっと抱き続けている同調と反撥。不思議な懐かしさを感じさせるイディアの心に、ゆうるりと、しかし確実に引きずり込まれてしまいそうな自分自身を、ティアレイルは持て余していた。
 夢という意識の中で見てしまったイディアの過去が重く心にのしかかり、さらにその気分を増大させる。
 イディアという存在の意味。そして自転停止の真実とレミュールの虚偽。生まれては消える疑問と解答。何が正しくて何が間違っているのか。自分自身でいまだ判断がつかないそのことを、誰かに話すわけにもいかなかった。
「……大切な存在が豹変した姿を見るのは、辛いことだよ」
 ティアレイルは科技研の青年を睨むようにそう呟くと、くるりと踵を返した。
 ふわりと、やや癖のある蒼銀の髪が風を孕んで宙を舞う。そうして無言のままショーレンから離れ、ティアレイルは先程リューヤが入った同じドアからイファルディーナに乗り込んだ。
「確かに……おかしいな」
 拒絶の色を浮かべて立ち去る大導士を眺め、ショーレンは軽く肩を竦めた。
 アスカの懸念どおりイディアの存在がティアレイルに何か影響を与えていることは確かなようだと、ショーレンはそう思った。
 レミュールにいた時には『象徴』と呼ばれ、人々の尊崇を一身に受けていた大導士とは違い、どこか精神が不安定であるように見える。
 自分は彼が腹の底で何を考えているか分からないと思ってはいたけれど、レミュールでのティアレイルはいつも穏やかな空気をまとい、人々に安心感を与える存在であったのは確かだ。
 それが今は、容易に心のひだが見てとれる。感情のコントロールが上手くいっていないように思えた。
「おい、ショーレン早く乗れよ。おまえが操縦するんだろ?」
 車体に手を掛けるように立っていたアスカは、ぼんやりとこちらを眺めて立ち尽くしている友人に声を掛けた。
 普段なら一番最後まで外に残っているだろう幼なじみが既に車に乗っているというのに、まっさきに乗っていそうなショーレンが外にいることが可笑しかった。
「ああ。いま行く」
 ショーレンは意志の強さをうかがわせる藍い瞳に強い笑みを宿して頷くと、軽快な足取りで近づいてくる。
「お手柔らかにお願いしますね。ショーレンさん」
 コントロール系装置の前に立ったショーレンに、セファレットはくすくすと笑った。彼の豪快な操縦のほどを、さっきルフィアに聞いていたのだ。
「ハシモトちゃんにいらんことを言ったのはアスカかな、それともルフィアかな? 俺は人を乗せたときは安全運転だよ。安心して乗っていいって」
 ショーレンは楽しげに笑うと、いたずらっぽく片目を閉じた。
 そして、鮮やかな手付きでコンピューターを操作して、ゆっくりとイファルディーナを発進させる。
 自然の中でもけっこう生き生きとしていたけれど、やはりコンピューターをいじっている時のショーレンは水を得た魚のようだと思い、ルフィアは可笑しくなった。
「アルディス、魔術は使えないって言ったのに嘘つきだな」
 リューヤはショーレンの隣で今まで見たこともない装置を目をまんまるにして見つめていたが、イファルディーナが宙に浮いたのを見て、口を尖らせた。
 魔力を使って車を浮かせたのだと、そう勘違いしたらしい。ショーレンは一瞬きょとんとリューヤを見やり、そして苦笑した。
「ああ。これは魔術じゃない。科学の産物ってやつさ」
「?? へええ、科学って魔術と同じようなことが出来るんだな」
 リューヤは感心したように頷いた。ショーレンから科学という文明の存在を聞いてはいたけれど、じっさい目にするのは初めてなのだ。驚くのも無理はない。
「魔術も科学も、実際は同じようなものなんだよ。強いて分けるなら、普遍的なものか特殊なものかという違いがあるくらいだ」
「ふうん?」
 理解できないふうのリューヤに、ショーレンはくすりと笑顔になる。
「人に確かな理解と証明を与えることが出来るモノが科学。不確かで説明や立証ができないモノを魔術と言うのさ」
 さっきリューヤはイファルディーナの浮上を魔術だと思った。しかし実際は魔術などではなく、科学派の研究の成果なのだ。その仕組みさえ分かってしまえば、誰もそれが不可思議なことだとは思わなくなる。
「だから……そうだな。例えば『転移』だ。人が瞬時に空間をわたって別の場所に移動するこの術の仕組みを、もし証拠付けて説明することができたとするだろう? そうするとその魔術は『魔術』ではなく『科学』になるんだ。科学になったその術は、いろいろな道具として人に使われることになる。まあ、簡単に言えば、特定の人間にしか使えなかった魔術を、易しく簡略化して誰でも扱えるような一般的な物にしたのが科学というとこかな」
「うーん。じゃあ『科学』は解明された『魔術』ってことなのかな?」
 わかったような、わからないような表情でリューヤは首をかしげる。
「そんなとこだ。だから科学がつくったものは誰にでも扱うことが出来る。魔術はその定理を理解したものにしか扱えない。そして……」
 ふと、ショーレンの表情が真剣さを帯びた。
「魔術はそれを扱う人間の能力に負うところが大きいから、その魔導士の存在自体が脅威となる危険性もある。科学の産物なら脅威となった物は破棄すればいい。だけど、人はそうはいかないからな」
 まるで何かを示唆するようにショーレンは言った。
 表面的にはショーレンの態度や表情に何ら変わりはなかったけれど、それがイディアの事をさしているのだとリューヤにはすぐに分かった。
 ショーレンはレミュールの人間ではただ一人、アルファーダの人々やイディアと親しく接した人間だ。イディアがアルファーダに生きる者たちにとってどのような存在なのか。リューヤに聞いたり、自分の目で見て知っている。
 そのイディアがレミュールに月を落とすということに、ショーレンの気持ちは他の人間よりも複雑だったに違いない。
「イディア様は脅威じゃないもん……」
 リューヤは軽く下を向き、上目遣いにショーレンを見やる。その拗ねたような反論に表情を和ませると、ショーレンはリューヤの額を軽く小突いた。
「分かってるさ。で、リューヤ。流月はどっちの方向だ?」
「……あっち」
 リューヤはふてくされたまま、太陽がある方角を示す。アスカは、何かに気が付いたようにぽんと手を打った。
 『地球の自転は流月の塔の真上に太陽が差し掛かった時に止まった』と、ロナがそう言っていたことを思い出したのだ。
「なんだ、太陽を目指して行けば良かったんだな。D・Eでは太陽の位置が変わらないということを忘れてたよ」
 アスカがそう言うと皆、あっという顔になる。つい、自分達の住むレミュールと同じように『太陽』の位置は一定でないと思い込み、ロナのその言葉を忘れていたのだ。
「……そうだよね。大間抜けだわ」
 ルフィアは自分自身に呆れたように、溜息をついた。流月の塔を探すなど、簡単なことだったのだ。
「そんなこと気にするなよ。アルファーダはだいぶレミュールとは環境が違うからな。すぐに把握出来なくて当然さ」
 ショーレンは軽く笑いながら言うと、流月の塔があるという太陽の真下に向けてイファルディーナを発進させる。
「ショーレンさん、まるで地元の人みたい」
 セファレットはくすくす笑った。
「まあな。一週間も住んでいれば把握するのは簡単な場所だよ、ここはな」
 ショーレンはリューヤの顔をチラリと見て、そう呟く。
 言葉にこそしなかったけれど、アルファーダはまるで誰かにつくられた箱庭のようだと、ショーレンはずっとそう思っていた。
 あまりにも穏やかな生。そして人々をつつむ優しすぎる自然たちが、逆に不自然に思えてならなかった。
「何でさ?」
 リューヤは不思議そうに首を傾けた。1週間やそこらで把握できるほど、アルファーダは狭くはないぞと、その眼差しが語っている。
「おまえに付き合って結構いろんな場所に行ったからな。少しはこっちの事情にも通じるというものさ」
 本心を言うわけにもいかず、ショーレンは軽く笑った。
「……事情など、知らない方がいいこともある」
 ティアレイルはそんな二人のやり取りを眺めながら、ぽつりと呟いた。
 昨夜見たイディアの過去が、心の深くに刻みこまれて離れない。悪いのはイディアではない。自分達レミュールの人間なのだ ―― 。
 真実を知った今、流月の塔でイディアに会ったら、自分はどう行動するのだろうか。カイルシアが言ったとおり彼を止めるのだろうか? それとも ―― 。
「ティアレイルさん、顔色悪いよ。大丈夫? 少し休んだ方が良いよ」
 不意に声を掛けられ、ティアレイルは顔を上げる。リューヤが、心配そうに自分の顔を覗き込んでいた。
 イディアに似ているからなのか、リューヤはティアレイルだけは『さん』付けで呼んだ。他の者は遠慮なく呼び捨てにしているというのに。それが可笑しかったのか、ティアレイルはくすりと笑った。
「平気だよ。それよりリューヤくんが眠った方がいいのではないかな。昨夜は眠っていないのだろう? 目の下に『くま』ができてる。そんな顔でイディア様にあったら、心配されてしまうよ」
 ティアレイルは優しい表情を浮かべ、リューヤの頭を軽く撫でる。自分でも不思議なくらい、それは自然に出た言動だった。
「……やっぱりティアレイルさんって、イディア様と似てるね」
 思わず涙ぐんでしまったリューヤは慌ててぐしぐし目をこする。
「ね、眠くなったから寝る。それに、おれの目に『熊』がいっぱいいたら、イディア様が驚いちゃうからな」
 そう言うと、リューヤは逃げ出すようにカーテンで仕切られた仮眠室に飛び込んだ。泣き顔を見られて、恥ずかしくなったのかもしれない。
「く、熊……」
 ティアレイルは思わずリューヤの目の下に小さい熊がワラワラいるのを想像して、くすりと吹き出した。
 何故かリューヤに『イディアに似ている』と言われても、苛立ちを感じない。小夜や左京とは違って、リューヤが純粋な感想を述べているに過ぎないからなのだろうか。
「不思議な子だな。他のアルファーダの人とは少し、持っている感覚が違う」
 そう呟くと、ティアレイルは何かを考えるように窓の外に瞳を向けた。
「 ―― !?」
 一瞬、眼下の荒野にたくさんの人や動物が倒れている姿が見えた。何の外傷もなく、ただただ『生命』だけが奪われた抜殻のような……。
 それは ―― 大地の記憶だったのかもしれない。慌ててもう一度見ると、そこにはもう、何もない枯れ果てた大地が、今までどおり広がっているだけだった。
「どうして、アルファーダに『生命』があるんだ?」
 不意に頭をもたげた疑問。あのカイルシアの『閃光』を受けて、この西側世界の生命は、すべて滅びたはずではなかったか?
 自然が少しずつ元に戻っていくのなら分かる。大自然には、人間の想像を遥かに超えた逞しい再生能力がある。
 しかし、自然すらほとんど再生していないこの場所に、どうして再び人や動物が存在しているのか……。それがティアレイルには不思議だった。
 レミュール側からは完全に封鎖され、生命が流れ着くはずもない。それに、左京たちが言ったとおり、ここの人間はレミュールの人間を忌避している。
 そのことでも、彼らがレミュールから流れ着いた生命ではないことは明らかだ。
 荒れ果てたアルファーダの大地。奇妙な動物たち。豊かな樹木に包まれた町々。それらのすべてが、どこか不自然だと、そうティアレイルは思った。
 そういえばショーレンはここを童話の世界のようだと言っていた。自然ではなく人の手で造られた世界。箱庭のような世界だと ―― 。
 もしかしたら、アルファーダは本当に誰かの手によって造られた『虚構』の世界なのかもしれない。
 誰の? ―― イディアの ―― 。
 そうなれば、つじつまは合ってくる。いるはずのない『生命』も、虚構ならばいくらでも造れるというものだ。
「やはり自転停止の時からずっと、ここは『死の大地』なのか……?」
 ティアレイルはやりきれないというように軽く頭を振った。
 己が抱え込んだ問題の大きさに押し潰されないように。天高く広がる青い空を眺め、ティアレイルは深く息を吐き出した。



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