第4話 『総帥の狂気』
滅び去った地球からこの新たな惑星レミュールへの転移。己の生命をかけてそれを為し、人々を救ったのだと云われる"カイルシア"の功績を、崇め讃える創世記念のセレモニーが魔術研究所と科学技術研究所の二つのアカデミーが主催となって毎年行われている。
普段は仲が良いとは言い難く敵対関係にある魔術研と科技研が、唯一共同で事を行うのがこの創世記念のセレモニーだった。そこで人々は改めてカイルシアの偉大さを心に刻み込み、今の平穏を感謝するのである。
その記念日がもうすぐそこに……あと一週間後まで迫っていた。
「……あと、一週間か」
総帥室のデスクに置かれた卓上のカレンダーを見やり、深く長い溜息をつく。
人々にとって信仰と憧憬の対象である創世主のカイルシアが、シホウにとっては嫌悪の対象でしかなかった。その名を聞くだけで吐き気がするようになったのは、もう何年も前のことだ。
救世と創世の魔導士であるカイルシアを最も敬うべき立場にいる『魔術研究所の総帥』が、そんなことを誰に言えたものでもない。
「知らなければ良かったと思う。……だが……知るべきことだったのだとも思う……」
カイルシアを嫌悪するようになった"要因"を心の内に呑み込んで、固く唇を噛み締める。誤算だったのは、知るべきことを知ってゆるやかに壊れはじめた自分の心の弱さだった。
「……愚かだな」
窓ガラスに映る自分の顔を見やり、総帥は嫌悪するように、睨むように、闇夜ような漆黒の瞳をすっと細める。
刹那、彼の姿を映しだす窓硝子はすべて、派手な音を立てて粉々に砕け散っていた。
「 ―― くっ……」
そんな暴力的な自分の行為に嫌気がさしたのか、彼は深い溜息をはきだすと頭を抱え込むようにデスクの上にうつぶせた。どうして良いのか、自分自身でも分からなかった。
けれどもふと、荒んだ心を癒すかのように、どこからか穏やかな気が流れ込んでくるのを感じて、シホウはゆっくりと身体を起こした。
その感覚がどこから流れているのかを探すように意識を研ぎ澄ませ、そしてすぐに答えを見つける。
「ティアレイル導士……か」
ここではない。もうひとつの自分の居場所 ―― 魔術研の奥深くにシホウが個人的に所有している研究室から、その気配は感じられた。
「心地よい"気"を出すのだな、あの子は……」
自分をつつみこむように流れてくるその"気配"に、先程まで見え隠れしていた負の感情がゆるやかに退いていくのが分かった。
その事実にくすりと静かに微笑んで、シホウはゆっくりと立ち上がる。そうしてすぐに、空気に溶け込むように宙に姿を消していた。
ぼんやりと、ティアレイルは長椅子に腰掛けて大きな木を眺めていた。
敬愛する総帥が最も好きなのだと言っていた、樹齢千年以上にも及ぶタキザクラの美しい古木。かなり季節外れのこの時期には、花など咲いているわけもなかったけれど、それでも時々この古木を見るために、彼はここを訪れていた。
以前 ―― タキザクラの木が美しい薄紅色の花弁で満開に彩られていたとき、この場所でシホウと話したことを思いだす。
世界をつつむ大自然は、流れゆく歳月を記憶しているのだと。その生命の内に刻み込まれた記憶を感じることが出来るのだと、そう言っていた総帥の感覚に、少しでも己を近づけたい。そう思うのだ。
けれどもまだ、ティアレイルには古木がその身に刻み込んだ歳月を読み取ることは出来なかった。
「そう簡単に近づけるわけがないか」
ティアレイルは翡翠の瞳に苦笑を浮かべ、ふうっと溜息をつく。
誰もがあの力溢れる総帥のようになれるわけではない。自分自身の内包する魔力の強大さをまだ完全には把握しきっていない少年にはそう思えた。
「魔導士にも、得意な分野とそうでない分野があるからね」
ふと、背後から穏やかな声が聞こえて、ティアレイルは笑顔になる。現れた気配もその和やかな低い声も、尊敬する総帥のものだということはすぐに分かった。
「シホウ総帥!」
「君なら、本当は何でもできるはずだとは思うけれどね」
嬉しそうに駆け寄ってきた若い導士に、シホウは優しい笑みを向ける。
まだ若いこの導士の身に溢れんばかりの強大な魔力が秘められていることは明らかだった。しかしいくら強大な魔力があっても、それを使いこなす為には経験、そして精神の強さが必要だ。
まだまだこの少年には時間が必要なのだと、シホウは思う。
「ゆっくりと経験を積めばいい。まだ、ティアレイル導士は若いのだから」
「はい。ありがとうございます。僕がいまの総帥の年齢になる頃には、少しは総帥の感覚に近づけていると良いなと思います」
翡翠のような瞳に意志の強い眼差しを浮かべ、ティアレイルは総帥の端正な顔を見上げた。総帥の、この穏やかな笑顔が好きだった。
「その頃には、きっと君は私などを遥かに凌駕しているよ」
くすくすと笑いながら、シホウはティアレイルの蒼銀の髪をくしゃくしゃと撫でる。
この若い導士の発する気配は、人の心を穏やかにさせ安らぎを与える"気"だとシホウは思った。先程まで負の感情が渦巻いていた自分の、今では落ち着いた心が何よりの証だろう。
淡く煌く月明かりのように揺らめく少年の気は、まるで世界の歪みを正す『聖雨』のように ――。
「……正す? 聖雨など……更に歪めているだけだ」
不意に、シホウの唇から小さく言葉がこぼれた。自分自身の考えを即座に否定する、氷のような声。
「シホウ総帥?」
総帥がなんと言ったのかは聞こえなかった。しかし、彼の気配が瞬時に変わったような気がして、ティアレイルは驚いていた。
「……いや、なんでもないよ。ティアレイル導士」
はっと我に返ったように、シホウは笑顔を見せる。いつもよりもほんの少し、ぎこちないものではあったけれど、それに気が付くにはまだティアレイルには経験が足りなかった。
「とにかく君は、今のままゆっくり歩んでいくと良い。アスカ導士と一緒にね」
そう言ってティアレイルを見やる総帥の気配は、すでにいつもの優しいものに戻っていた。
「きっと、彼は君の支えになってくれるだろうから」
「ええ。今までもずっとそうでしたから。でも ―― 本当はあっちゃ……アスカ導士とは対等な位置につきたいんです。なかなか"弟"から抜けだせないのがちょっと悔しくて」
「はは……。そうなのか? まあ、あと数年もすればそうなれるのではないかな」
ティアレイルの拗ねたような物言いが可笑しくて、シホウはくすくすと笑って励ました。
確かに二人の関係は対等な幼馴染みというよりも兄弟の関係に見えた。傍から見れば微笑ましいことでも、本人にしてみれば大問題なのだろう。
「だと良いんですけど。……あ、僕はそろそろ戻りますね。創世記念の準備に呼ばれているので」
創世記念が近付いている今、任務に就いていない導士は準備に駆りだされることが多い。ティアレイルもその一人だった。
本当はもっとここで総帥と話をしていたかったが、まさか準備をさぼるけにもいかなかった。
「それじゃあ、お先に失礼します」
名残惜しそうにそう言うと、ティアレイルは深々と礼をしてから軽やかな足取りで駆け去って行く。
「……ティアレイル導士は……知らないほうがいい……」
去っていくティアレイルの後ろ姿を眺めながら、シホウはふとひとりごちる。そうして、こつんと。目の前に佇むタキザクラの太い幹に額をつけた。
樹齢一千年にもおよぶ長い長い歳月を生きているタキザクラ。とても多くの歴史を刻む ―― 古木。さらさらと、闇から切り取られたかのように深い漆黒の髪が、その幹に降りかかるように流れ落ちた。
「……あの子は……この古木の記憶を受け取らないほうがいい」
古木からいったいどんな記憶が流れ込んでいるものか。青年の穏やかで理知的に煌く黒い瞳は、どこか痛々しいような。哀しいような。嫌悪するような。ひどく複雑な彩にとって変わる。
「……私だけで十分だ……」
ティアレイルが自分とよく似た思考の持ち主であることを、シホウは気が付いていた。だからこそ、何もかもを"知りすぎる"ことは彼のためには良いことではないだろうと分かる。
だから ―― 古木が生命の内に刻み込む過去の歳月を封じよう。強大な魔力を自在に操れるようになった時、あの若い導士が"それ"を感じ得ることがないように ―― 。
それがいま"自分"に出来る"最後"のことだと、シホウは何故かそう思った。
「シホウ、やっぱりここに居たのだね」
ふいに耳慣れた明るい声が聞こえて、シホウは顔を上げた。
自分を探しに来たらしいロナが、ほっと安堵したような表情で近付いてくるのが見える。おそらく先ほど部屋でシホウが放った魔力の破壊衝動に気が付いて、ロナは総帥室に行ったのだろう。無残に砕かれた窓硝子も見たはずだった。しかし ――
「私が何処でさぼるのかは、ロナにはお見通しなんだな」
シホウはにこりと笑った。穏やかで静かな笑顔。決して"その事"には触れるなと言わんばかりに強い意思を宿す、けれども明るい笑顔だった。
「ふふ。伊達に何年も友人はやっていないのでね、それくらいは分かるよ」
ロナは可笑しそうに白い瞳を細めて笑った。
その脳裏には、先ほど総帥室で見た光景が鮮明に浮かんでいた。明らかにシホウがその魔力で破壊したのだと分かる、ガラスの破片。それがまるで ―― シホウの心であるような気がして、慌ててロナは彼を探しに来たのである。
見つけ出した彼に不安定な気配は感じられず、いつもどおりの穏やかな空気をまとっていることにほっとすると同時に、何故だか切なくもなった。
彼が何かに苦しんでいることは間違いない。しかしその本当の理由が分からないのだ。
魔術研究所でこの青年と出会ってから十年近くが経つというのに、その苦悩すら悟ってやることのできない自分自身の鈍さが情けなかった。
「さっき、この古木に何をしていたんだい? 魔力が紡がれるのは分かったが……」
先ほど古木に身を寄せていたシホウの様子は、ひどく哀しげだった。だからこそ友人の苦悩の断片を少しでも感じ取ろうと、ロナはそう訊ねた。
「……なあ、ロナ。この古木を私がここに移植した時のことを覚えているか?」
そっと古木に触れながら、くすりとシホウは笑う。
「ああ、もちろん。おまえが総帥職に就いたときだからね。確かその記念だと言っていた」
五年前の春に、美しく咲き誇るタキザクラをどこからかシホウが魔力に包みこんで運んで来たときには驚いたものだった。そのとき彼が「ここの気候にはあまり合わないけど、少し改良して移植するんだ」と晴れやかに笑っていたのを思いだし、ロナは目を細める。
あの頃に比べると、いま目の前に佇む親友はやはり疲れきっているような気がした。今から考えてみると、総帥への若過ぎる就任だったのだと思う。
「このタキザクラは『D・E』から持って来たものだって言ったら、ロナは信じるか?」
不意に、シホウは漆黒の瞳を挑むように煌かせ、不思議と年齢がつかめないロナの、穏やかな顔を見据えるようにそう言った。
「 ―― !?」
あまりに意表を突かれたその言葉に、ロナは思わず大きく目を見開く。自分を見つめるシホウは、どこか不思議な……捕らえどころのない笑みを浮かべていた。
この惑星レミュールの半分以上もの土地を占めるD・Eと呼ばれる地域。人の住むことが出来ない、危険な環境に包まれているという領域。そこに行くことなどは決して有り得ないことだった。
その場所は、魔術・科学の両アカデミーによってしっかりと強固な結界が張られ、封鎖されているのだから。しかし ――
「おまえがそう言うのなら、そうなのだろうね」
少しの気負いもなく、ロナはそう返す。
自分よりも遥かに強大な魔力を持つこのシホウには、結界を越えて転移することも可能なのかもしれないと思えたし、何よりも、親友の言葉を疑う理由がなかった。
「はは……ロナならそう言うと思ったよ。でもまあ……冗談だよ。二重結界の向こうに私が行かれるわけがないだろう? これは……私の"故郷("から持ってきたものだよ」
「故郷っていうとレイスにあるご実家から?」
「さあ……どうだろうね」
にこりと笑って、シホウは軽く肩をすくめてみせる。それ以上は、もう何も言わなかった。ただ、とても不思議な笑みだとロナは思った。
それが真実を隠すための笑顔なのか。それとも本当にただの冗談だったのか ―― この時の彼には判断することが出来なかった。
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