永久(とわ)をゆく風
  【 1 】
 朱金に輝く東の天空を眺めながら、青年は深い溜息を吐いた。
 さらさらと優しい風になびく丈の長い草たちに囲まれながら、どこか物憂げな瞳が落胆したような光を帯びる。
「ここも違ったか……。どれだけ探せば、見つけることができるんだ……」
 軽く頭を振ると、青年、アジュレは近くの岩に寄りかかるように腰を下ろした。
 そのひんやりとした岩肌が心地よいのか、彼は軽く瞳を閉じ、そのまましばらく動こうとはしなかった。
 青年の、非常に珍しい紺碧の頭髪と瞳。その深い碧色は、周りの自然と見事に調和する。けれども生き生きとした自然たちの中に在って彼のその物憂げな様子だけは、ひどく浮いて見えた。
「死んでるのかな」
 ふと、耳元で子供の声がした。
 こんなに朝早く、しかも人など自分以外に存在しそうにもない人里離れたこんな場所で子供の声がするとは思いもしなかったアジュレは、重く閉じていた瞼を驚きに開けた。
「…………」
「うっわあ。生きてた!」
 まるでピクニックにでも行くような軽快な服を着た十歳くらいの少年が、自分を見あげた碧い瞳におおげさに驚いてみせる。
「顔色悪かったから、死んでんのかと思って驚いちゃったよ」
 少年はアジュレが口を開くより早く、そう言って目を丸くした。
 驚いたのはこっちだ。そう言いかけて、アジュレはしかし開きかけの唇を閉じた。こんな子供を相手にしても仕方がない。そう思った。
「なんだよ、変な兄ちゃんだなあ。金魚みたい口ぱくぱくしてさ。へへ。いい年こいた大人がよくやるよな」
 少年は好き放題に言って、楽しそうにアジュレの顔を眺め回した。
「誰が変な兄ちゃんだ」
 いきなりこんな場所にやって来て、変なのはお前の方だ。そう思いながら、アジュレは、すっくと立ち上がる。
「わっっ! わわっ……!」
 覗き込むような体勢でアジュレを見ていた少年は、いきなり立ち上がられて、うしろにのけぞった。そしてそのまま、どすんと尻餅をつく。
 下は柔らかな草地だから良かったようなものの、そうでなかったら思い切り嫌というほど尾骨を打ったに違いない。
「っぶないなあ、もう」
 ぷくっと幼い頬を膨らませ、少年は背の高い男の顔をじっと見あげた。
 少年のそんな抗議に、アジュレは眉をひそめた。
「……わるかったな」
 一応、そう謝っては見せる。けれど、そこに誠意があるとは到底思えなかった。
 そんなアジュレの態度に少年はますます頬を風船のように膨らませた。文句を言おうとして、そして息を呑んだ。
 目の前に佇む青年の、碧い瞳の底にたゆたう、悲しみにも似た『無気力』を見出したからだった。
 見ているだけでも心が寒くなるような、ひどく泣きたくなるような、そんな碧い碧い眼光。普通なら、その瞳を見ればすぐにでも、そこから逃げ出したくになるに違いない。
 けれども少年はそんなアジュレの瞳に、ある種の共感を覚えていた。
 それを共感というのは少し違ったかもしれない。ただ、この青年はもしかしたら自分と同じ人種かもしれない。そう思った。
「……にいちゃんも、もしかしてとっても大事な何かをなくしちゃったのか? それを探してるのか?」
 少年は思い切ってそう聞いてみた。あれこれ考えるより、直接聞く方が早い。
「…………」
 アジュレはきつく口をつぐむと、ぷいと少年に背を向けた。何が言いたいのか知らないが、相手にしてやる謂れはない。
「おれ! 知ってるんだけどな。風の咏(うた)が聴ける場所っ!」
 無言のまま立ち去ろうとしたアジュレの気を引くように、大きな声で叫んで見せる。
 風の咏(うた)。それは、創造主の息吹ともいわれる特別な風。
 その風の咏は、本人が心から望んでいることに対し、正しき導きを与えてくれるという伝承がある。何かを探している人間なら、必ず興味を示すに違いない。そう思った。
 案の定、アジュレの足は立ち止まった。しかし、
「だったらさっさとそこに行くんだな。こんなとこで道草食う必要はないだろう」
 端から少年の言葉を信用していないのか、アジュレは無感情にそう告げる。
「道草じゃないもん。通り道で兄ちゃんが死んでたから、立ち止まっただけだろ!」
 まけじと少年は叫んだ。青年は『風の咏』を否定しなかった。それは、やはり自分と同じ人種だからだ、そう思うのだ。
 不意に、アジュレの表情が暗くなった。溜息を吐くように紺碧の頭髪を揺らす。
「……本当に死んでいたらな」
「!?」
 意外すぎるその言葉に、少年は耳を疑った。疑って、そしてアジュレの顔を見る。
 ―― 本気で死にたがっている。そう、少年は直感した。本気で『死』を切望している碧い瞳が、無性に腹立しくさえ思えてくる。
「死にたがるなんて、どうかしてるよ。せっかく生まれたくせに!」
 口を尖らせて、少年はアジュレの足を思い切り蹴とばした。
「……何も知らないくせに、余計なことを言うな。おまえのような普通の奴には、死ということがどれほど幸せなことか分からない」
 紺碧の瞳が底光りするように少年をじっと凝視する。凍てついた炎のように激しさを秘めたその眼差しは、何者も受け入れない極寒の冷気をともなっていた。
 少年は、傷ついたように一歩あとずさった。
「わかんないけど……わかんないけど、兄ちゃんだって生きられることがどんなに贅沢なことなのか、分かってないじゃないか!」
 全身で叫び、悔しげに歯を食いしばった。
 そして、くるりとアジュレに背を向けると、湧き上がってくる悔し涙を腕で何度もこすり、少年はそこから駆け去っていく。
 何の関係もない子供を傷付けてしまった。そう、後悔はした。けれども、あの子が心の琴線に触れるようなことを言うのがいけないのだ。
 そう、割り切る。あまり、他人と関わっていたくなかった。
「 ―― 」
 やりきれないというように青空を仰ぎ見て、彼は深い溜息を吐き出した。
 そうして少年の存在を頭から消去すると、アジュレはゆっくりと、脇の小道を歩いて行った。


 たくさん走って喉が渇いたのか、少年は近くを流れる小川に駆け寄った。その水面に映る自分の顔に、はあっと深い溜息を吐く。
「ちぇっ、うさぎの目になっちゃったよ。あいつ、追いかけても来ないしさ」
 ぼやくように水をはじく。
 あの状況ならば、普通の大人なら追い駆けてくるものじゃないか、そう思うのだ。それなのに、一向に追い駆けてくる様子もない。
「せっかく仲間を見付けたと思ったのに、あんな奴だなんて運が悪いや」
 近くにあった小石を拾いあげ、ぶんっと川に投げ込んで口を尖らせる。
「それも、死にたいなんてさ」
 もう一度小石を投げながら、少年は哀しげに目を伏せた。
 ―― おまえのような普通の奴には分からない。そう言われた言葉が、耳にこびりついて離れなかった。
「あの兄ちゃんは普通じゃないんだって……仲間だって、すぐに分かったのに。でも探し物は、まったく違うものなんだろうな……きっと」
 膝を抱えるように座り込み、少年は呟いた。
 風の咏を求める者に『普通の人』などいやしないのに……。あの青年はそんな事も知らないのだろうか?
「えーい、もう知らないっ!」
 ずんと落ち込んでいきそうになる自分が嫌になったのか、少年はすっくと立ち上がった。
 そして大きく息を吸い込むと、
「この根性悪! 冷酷人間、まぬけ、どてかぼちゃ……えーっと、とにかく、めーいっぱいの大バカ!」
 あまり豊富でないらしい悪口雑言を叫ぶと、少年はすっきりしたように大きく伸びをした。
 冷たい川の水で喉も潤ったことだし、そろそろ出かけようと辺りを見回す。
 その瞳が、小川の下流を見やり、まんまるになった。
 そして、まるでいたずらを見付かった子供のような表情になる。
 少年の立つ岸から下流五メートル足らずの距離に、独特な紺碧の瞳と髪の青年が立っていた。アジュレ自身驚いていたのか、その表情はひどく固まっていたけれど……。
「なあんだ、兄ちゃん。今ごろ追い駆けてきたのか?」
 悪口を言っていたことにぺろりと舌を出すと、少年は弾むように青年の前に歩み寄る。
 もちろんアジュレは水を飲もうと偶然ここに出たのであって、この子供を追い駆けてきたわけではなかった。
 けれども、やはりさっきのことを少し後悔していたのか、僅かに苦笑を浮かべ、少年が来るのを待った。
「さっきは悪かったな。あれは、八つ当たりだな」
 アジュレは軽く頭を下げた。
 その碧い瞳が、今度は本当に反省しているのを見て、少年はいたずらな笑顔を見せて何度も頷いた。
「べっつにいいよ。おれ様は寛大だからな」
 小さな体で偉そうに踏ん反り返る。
 そんな少年の態度に、アジュレは思わず笑い出していた。
「おかしな奴だな、おまえは」
 くすくすと笑いながら、アジュレは少年を見る。自分がこうして笑うなど、何年ぶりだろうか? そしてアジュレにつられたように、少年も笑っている。
 ふと、この子に前にも一度どこかで会ったことがある ―― そんな不思議な感覚にアジュレはとらわれた。それがいつだったのか思い出せない。ただ、ひどく懐かしい気がした。
「俺はアジュレだ。おまえの名は?」
 一緒に探し物をするにしても、このままここで別れるにしても名前くらいは知りたい。そう思った。他人との接触を極力避けていたさっきまでの自分では考えられない言動だと、彼自身分かっていた。
 けれど、この懐かしさはなんなのだろう? その理由が知りたいという気持ちが彼にそうさせた。
 刹那、今まで元気印だった少年の表情が、ふうっと寂しそうなものにとってかわった。
 ややして、僅かに尖った唇が小さく開く。
「……ないよ、そんなもの」
「名前が、ない!?」
 アジュレにとって、その返答は余りに信じられないことだった。自分は、知っていた。この世に生まれ出たその時から、既に自分の名を。
 紺碧という意味を持つ、アジュレという名であることを……。
 名前など、あるのが当然。道端に咲く雑草にだって、それぞれ名前がある。それが、無い者が居るなどと、にわかには信じられなかった。
「そんなもん、あるわけないだろ! おれはさ、生まれて来なかった子供なんだから」
 むくれたようにそう吐き捨てる少年に、いっそうアジュレは驚いた表情になる。
 生まれなかった子供とは、いったいどういうことなのだろう? 理解できないというように、彼は何度も瞬きをした。
「兄ちゃんだって、普通じゃないんだろ! おれはすぐに仲間だって分かったのに!」
 一向に理解しない青年に、少年はもどかしげに足をならした。
 アジュレは目を見開いて、少年をまじまじと見詰めた。じっと見て、そして気が付いた。たしかに、少年からは自分と同じ感覚が感じられるではないか!
 死から忘れ去られ、老いも死も知らない自分。
 そして、生から見放され、生まれることが出来なかった少年。
 正反対のようでいて、二人はどこか似ていた。それは、独りだということ……。
 アジュレは何も言えず、ただ茫然と子供を見た。自分が死にたいと言った時、何故この子があんなにもムキになったのか、その理由が分かり深い溜息が出た。
「やだなあ、同情なんてするなよな。おれは失くした命を探してるんだ。見付けたら、今度こそ生まれるんだからさ」
 楽しそうに、少年は笑った。
「俺は失くしてしまった終焉(おわり)を探してる。取り替えられたら良かったのにな」
 アジュレは再び溜息を吐いた。生きたい人間が居るというのに、どうしてその人ではなく、天は自分を生かし続けるのだろうか……?
「世の中そんなにうまく行かないって。兄ちゃんさあ、暗ーく考えるのやめなよ。独りで居るから死にたいなんて思うんだ。だからさ、一緒に探し物しようよ」
 おねだりをする子供のように、少年はアジュレの腕を揺さぶった。
 探し物をするということ、それはアジュレにとっては〈死〉だ。少年の誘いはその点では矛盾している。けれども、少年の表情はとても真剣だった。
 アジュレは考え事をするように瞼を閉じ、そしてゆっくりと開く。
 その彼の表情には、どこかぎこちない、しかしとても優しい笑みが浮かんでいた。
「どうせ行く場所は同じだからな。風の咏を聴くまで一緒に行くのも良いさ。よろしくな。……ルトゥール」
「……? ルトゥールって、何のことさ?」
 青年の口からこぼれ出たその言葉が、何故か心地よく嬉しい響きであるように思えて、少年は不思議そうにアジュレを見あげた。
「おまえの名前だ。無いと、呼ぶ時に不便だろ」
 ぶっきらぼうにそう告げる。
「兄ちゃんが、わざわざ考えてくれたのか?」
 初めて付けられた自分の〈名前〉に、少年は照れくさそうに頬を掻いた。なんだか、とってもくすぐったい気分なのだ。
「べ、別に考えたわけじゃない。再生という意味をもつ言葉をつけただけだ」
 照れたのか、ぷいっと顔を背けるアジュレに、<ルトゥール>はそれでも嬉しくて仕方が無いというように、何度もその名を呟きながら、青年の周りを飛び跳ねた。
「そっかあ、ルトゥール……ルトゥールかあ。ありがとうね、兄ちゃん」
 まるで、世界にたったひとつしかない宝物を貰ったかのような喜びようだ。
 そんなにまでも喜ぶ少年に、アジュレは苦笑した。たかだか名前が付いたということが、そんなにも嬉しいものなのかと、新鮮な気さえする。
「へへっ。初めから持ってる兄ちゃんには、分からないのさ!」
 ルトゥールはにこりと笑った。
「さ、行こうぜいっ」
 元気いっぱいに「出発進行!」と右手を天に高く突き上げて、ルトゥールはずんずんと森の方向に歩き出す。
「どこに行くんだ?」
 決まりきったことを、間抜けにも聞いてくるアジュレに、少年はいたずらな笑みを浮かべて振り返った。
「だーからー、おれ、知ってるって言ったじゃん。風の咏が聴ける場所。兄ちゃん、まったく信じてなかったんだろお?」
「まあな」
 苦笑を浮かべ、アジュレは頷いた。
 ルトゥールはおおげさに溜息を吐いてみせた。
「あのさ、この先の森を抜けたところに、おっきな湖があるんだって。でね、その湖岸は創造主がお気に入りの場所なんだ。だから風の咏が聴けるんだって、教えてもらった。世界中を周ったっていう、お爺さん幽霊に。そのお爺さんも風の咏を聴いて、大切な失せ物を見つけたんだって喜んでたよ」
 これで信じる気になっただろうと、ルトゥールは得意げに顎を上げた。
「この森の向こうの湖? ……あそこだったのか」
 アジュレの口から深く長い吐息が漏れた。自分の心を見るように、固く瞼を閉じる。
 永い間探し続けてきた風の咏が聴ける場所。それが、まさかあの場所だったとは……。
 かつて自分と最愛の女性が生活し、そして、永遠に失われた場所。
 もう、あの場所には行くまいと思っていたものを……。   
「どうしたの、兄ちゃん? 早く行こうよ。急げば今日中に着けるよ。まあ、ゆーっくり行くのも良いけどさ」
 せっかく二人なんだしと、少年は呟くように付け加える。
 アジュレはふと、顔を上げた。そして元気な少年の顔を見て、くすりと笑った。
 普段ならどこまでも落ち込んで行く心が、この元気な子供に触発されたのか、ぐんと引き上げられてくる。
「そうだな、行こうかルトゥール」
 本当に久しぶりに、アジュレの顔にはあざやかな表情が広がっていた。
「おうよ!」
 もう一度右手を高く掲げ、ルトゥールは応えた。
 そして、二人はゆっくりと、みどりに彩られた小道を歩いて行った。

  【 2 】
 春の陽で染め上げたような柔らかな髪を風に舞わせ、ひとりの女が走ってくる。それを心配そうに見つめながら、紺碧(あお)い髪の青年は、気を付けるようにと声をかけた。
「大丈夫よ、アジュレ。心配症ね」
 彼女は楽しそうに笑い声を上げ、青年の腕に飛び込んだ。見上げるほど上にある青年の顔を見て、彼女はくすりと笑う。
 青年がとても困惑した表情をしていたからだ。
「ねえアジュレ。あなたをもう独りにはしないよ。いっぱい年が経って、私がおばあちゃんになって死んじゃっても、ここにはあなたの家族が居るんだから。この子の子供もその子供も、みんなあなたの家族だもん。それでね、私はその家族のなかにずっと居るの。だからもう、おいて逝かれる、なんて哀しいことは言わないでね」
 大切な人が出来ても、いつかは必ず自分を置いて逝ってしまう。それがアジュレの口癖だった。
 不老不死であるが故に同じ時間を進むことが出来ず、何度も大切な存在を失ってきた。
 その悲しみに耐えられず、他人との接触を避けていたアジュレの心を、もう一度開かせた彼女は、そう言いながら優しく笑うのである。
 それが、アジュレには嬉しかった。
 時は移ろい、人、そして国という大きな物さえ変わっていく中、自分だけが何も変わらず取り残されていくという恐怖と哀しみ。
 自分だけが変わらないという現実は変わらなくとも、彼女はそんな孤独を癒してくれるかもしれない<家族>を、自分に与えてくれるという。
 家族は、やはり自分を置いて次々と逝くことだろう。けれど、自分のためにそう考えてくれる彼女の心がとても嬉しいのだ。
「ああ。もう言わないよ」
 アジュレは柔らかな笑みを浮かべ、まだ見ぬ自分の家族が眠る、娘の身体をそっと抱き寄せた。今、アジュレはとても幸福だった。
 しかし ―― それはすぐに終わりを告げた。
 彼女は数日後、帰らぬ人となったのである。新たに生まれてくるはずだった生命。まだ見ぬアジュレの家族と共に ―― 。
 散歩に出た彼女は誤って谷に転落したのだった。あまりにも突然に、そしてあっけなく、彼女は逝ってしまったのである。
 <不死者>が<家族>など持っていいはずがない。
 在ってはならぬ物をその身に宿したからこそ、彼女もろとも消されたのだと、誰かが自分の耳元で囁いた。
 アジュレは……泣かなかった。度を越えた悲しみが、泣くという行為さえも忘れさせた。
 ただ、吹き荒れる感情を宿した紺碧の瞳だけが、行き場の無い悲しみを天に投げかける。
 これほどまでにあっけなく、そして突然訪れるものが死なのだとしたら、何故自分には、それが与えられないのか……と。
 存在してはならぬもの。それは彼女や、その身に宿っていた新しき生命ではなく、朽ちる事を忘れた自分ではないか!
 これまで諦めていた死を、アジュレはこの時初めて、激しく望んだ。
 人を導く風の咏は、この世界を創造した主の息吹だと、最愛の女性は言っていた。
 だから、アジュレは風の咏を探しはじめた。
 創造主ならば、自分を死なせてくれるだろう ―― 。


「……兄ちゃん、兄ちゃん、起きろよ!」
 激しく体を揺さ振られる感覚に、アジュレは目を覚ました。おぼろげな意識が急速に覚醒し、現実に舞い戻る。
 ここが、湖のほとりにある小さな廃屋であることを思い出し、青年はふうっと深い吐息をこぼした。
 ここは……この廃屋は、かつて自分と最愛の女性が住んでいた家だった。昔の夢を見たのはそのせいだろう、額に浮かんだ汗をぬぐいながら、アジュレはそう思った。
「すっごく、うなされてたぞ」
 ルトゥールは何故かふてくされた表情で、アジュレに水の入ったコップを差し出した。
 うなされながら幾度も、死を望む言葉を吐くアジュレが哀しく、そして腹立たしかった。
「何でそんなに、死にたいのさ」
 ふてくされたまま、少年はアジュレを見やる。
 アジュレはコップを受け取ると、気怠げに笑って見せた。
「……気付いた時、俺は既にこの姿でここに居た。数えることすら馬鹿らしくなるようなずっと昔から。国の興亡や人の生死。いろいろな変化を見てきた。自分だけが変わらずに。それが、ただただ生き存らえるということが……どれだけ苦痛か、おまえには分からない」
 恐ろしいほどに穏やかな声だった。
 ルトゥールは、一層ふてくされた表情になる。何も言い返せない自分が悔しく、そしてやるせなかった。
「おまえは、何故生きたい? ルトゥール」
 不意に、アジュレは少年にそう聞いた。
 少年は突然の問いに戸惑い、考え込むようにうつむいた。
 ややして、ルトゥールは木枠の窓を開けて、天上に広がる星空を仰ぎ見た。
「たとえば、この空。こんなに綺麗なものを本当の瞳で見てみたいな。今みたいに命の無い、幻みたいな自分じゃなくて」
 アジュレは淡く笑った。今でも十分生きているみたいじゃないか。そう言ってみる。
 ルトゥールはしかし、楽しげに笑いながら、首を横に振った。
「今はまだ偽者だもん。それに、おれ、生まれないと駄目なんだ。生まれないと<寂しがりな夜>を元気付けてあげられないからさ」
 照れたように頭を掻いて、少年はそう言った。
「……寂しがりな、夜?」
「うん。おれのお母さんっていう人が、まだ小さな命だったおれにいっつも言ってたんだ。生まれたら、一緒に寂しがりな夜を元気付けてあげようねって。だから、生まれないとお母さんとの約束守れないよ」
 にこにこにこと、ルトゥールはアジュレの顔を見上げた。
 アジュレは微かに震えた。それは、確信という名の推測。
 ―― まるで寂しがりな夜だね。
 アジュレが口癖を言うたびに、最愛の女性は彼の紺碧の瞳を見つめ、そう言って笑ったものだった。
 ルトゥールは……この少年は、幻となった自分の家族なのかもしれない。あの日、彼女とともに失われた……生命(いのち)。
「どうかしたのかよ、兄ちゃん?」
「い……や、何でもない。それよりそろそろ夜明けじゃないか? 風の咏が聴こえる時間だ」
 アジュレは感情を呑み込むように、笑顔をつくった。この事は自分だけが知っていればいい。ルトゥールは、これから新しく生まれ変わるのだから。
「本当に、ここで良いのかな」
 急に心配になったのか、少年は心細げにアジュレを見た。ルトゥールも、ここに来るまで何度も失敗してきたに違いない。不安になるというのも仕方が無い。
「大丈夫。きっと、聴けるよ」
 ここは<彼女>の眠る場所だから ―― 。
 アジュレは軽く笑うと、ルトゥールの背中を押して外に出た。
「うっわあ、綺麗だねえ」
 ルトゥールは感嘆したように溜息を漏らす。東の空の朱金と、西の空の紺碧が、微妙な色彩で重なり合うように湖面に反射して、まるでここが天空そのものであるような気さえする。
「……ん、綺麗だな」
 アジュレは呟き、そして天空を仰いだ。空の中心に自分達は立っている。そんな錯覚を覚える不思議な光景。そんな空のまんなかで、ふたりは柔らかな風に吹かれていた。
 それは ―― 風の咏(かぜのうた)。
 夜明けとともに息づく樹木の、暖かな旋律にも似た……。
 それは耳にではなく感覚として、心の内に優しくあたたかに響き渡る。願いを叶えるための確かな解答(こたえ)。
 アジュレにとっては死の、そしてルトゥールにとっては生まれるための……。
 その創造主の息吹を感じながら、アジュレは思い出していた。
 自分が、いったい何だったのか。
 余りに遠い記憶のために、忘れ去っていた……そのことを ―― 。
「兄ちゃんも風の咏を聴いた……よな?」
 生まれる方法を掴んだはずのルトゥールは、何故か哀しそうにアジュレを見やる。
 自分が風の咏に導かれたように、アジュレも死ぬ方法を見付けたに違いない。その思いが、ルトゥールにそんな表情をさせた。
 それは、自分のわがままかもしれなかった。けれど、ルトゥールは『兄ちゃん』が死ぬのは嫌だった。短い時間だったけど、二人でいたのは事実なのだ。
「ああ。聴いたよ」
 アジュレは髪をかきあげながら、今までに見せたどの表情よりも柔らかな、そして優しい笑みを浮かべて少年を見た。
 そんな穏やかな表情をしたアジュレに、ルトゥールは腹が立った。
 死ということが、そんな表情をさせるほど、アジュレにとって幸せなことなのかと思うと、とても悔しい気がした。
 けれど、不死者の辛さが自分には分からないというのも確かなのだ。
 何か言いたいと思うのに言えない。そんな気持ちが、ルトゥールの口を何度も開かせ、そしてそのたびに閉じさせた。
「なんだよ、変な子供だな。金魚みたいに」
 アジュレはくすくす笑いながら、少年が初めて自分に言った言葉をお返しする。
「……んだよお、それ」
 ルトゥールは、わっと湧き上がってきた涙を隠すために、思いっきり笑って見せた。
 それが半分だけ成功した表情で、一生懸命言葉を選ぶようにルトゥールは瞳を上げた。
「あのさ、兄ちゃん。おれ、すごく嬉しかったんだよ。名前を付けてもらったとき。自分はもしかしてもう生きてるんじゃないかって、そう思ったくらいにさ」
 せっかく新たに生まれる方法を見付けたというのに、素直に喜ぶ気になれなかった。それはきっと、ふたりでいるのが楽しかったからだ。そう思った。
「おれ、同じ人間に生まれ直すのかと思っていたんだけど、違うんだね。別人になって、お母さんとの約束やルトゥールって名前。それに兄ちゃんのこと……忘れちゃうのは嫌だな。だから、もし兄ちゃんが死なないでいてくれるなら、おれ……」
 ―― このままでもいい。
 アジュレはそんな言葉を遮るように、ルトゥールの髪を優しく撫でた。
 既に、彼は死を望んではいなかった。
 自分が何者だったのか。それを思い出してしまったから……。
 たくさんの自然やたくさんの動物。そんなすべての命が生きる、この碧い惑星。
 <世界>という大きな存在でありながら、<人間>の生活がしてみたいと創造主に願ったのは……遠い昔の自分だった。
 紺碧の惑星。世界そのものである自分。ルトゥールが再び生まれ変わってくるはずのこの世界を、殺すわけにはいかないではないか ―― 。
「せっかく、再生という名前を付けてやったんだ。新しく生まれて……恩返しに来いよ」
 冗談めかした口調で、アジュレはそう言った。
 その言葉に、兄ちゃんは生きていてくれるのだと、ルトゥールは分かった。何度もごしごしと目を擦り、そしてめいいっぱいの笑顔を青年に見せる。
「う、うんっ! またここに来て、兄ちゃんに喝を入れてやるから、待っててよね。……絶対に、憶えていてみせるから」
「ああ」
 アジュレは淡い笑みを浮かべ、頷いた。
 それに安心したように、ルトゥールは<風の咏>の導くまま、風に身体を預けるように瞳を閉じた。
 ふわりと、少年の姿が風に溶け、輝くような<命>に変わる。
 そのルトゥールの命を乗せた風が、ゆっくりと、どこか遠くへ流れて行った。
 途絶えることなくそよぐ風の中、微かに寂しげに、しかしとても穏やかな表情をしたアジュレに見送られながら ―― 。 
 ふと、アジュレは湖に視線を向ける。
「君が……あの子をよこしたのかい?」
 かつて愛した女性に語るように、アジュレは紺碧の瞳をちょっとだけ細める。
 風は、微笑むように水面を揺らした。
 そこに、にこりと笑った娘の姿がアジュレには見えたような気がした。

 そして ―― 命は帰ってくる。
 永久(とわ)を翔ける風に乗り、美しい紺碧に彩られた、この世界に。
『永久をゆく風』 おわり

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