蒼き花 散りて星 |
〜 星生まれの咏 〜
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ぎゃんと、突然短い悲鳴のような声が上がった。 その根底に感じられる無念さと哀しい気配に、はっとユライアは声を振り返る。 男たちと激しくもみ合っていた白狼がひくひくと体を痙攣させながら、ぐったりと地面に落ちていくのが暗闇の中でもはっきりと見えた。 白狼の喉元は切り裂かれ、純白の体躯を紅く染めながら地面に小さな泉を作るように、真紅の液体をぞろりと広げていた。 「ちっ。こんな獣まで手懐けやがって!」 男たちは怨嗟の声を上げながら、荒い呼吸を繰り返し立ち上がる。そうして呆然と見開かれたユライアの薄藍の眼差しと目が合うと、憎々しげに頬を歪めた。 「おまえに関われば、人でも動物でも皆こうなる。やはりおまえは禍神だろうがっ?」 狂気に猛たように男たちは叫び、白狼の喉を切り裂いた細長いナイフを掲げて見せる。 「ふ……ざけるなっ! 私が禍神の化身だと? それならおまえたちは、災禍そのものだ!」 怒鳴るように叫び、手近にあった太目の木枝を手折って握り締めた。 たとえ自分を殺そうと追ってくる人間であったとしても、反撃しようなどと思ったことはなかった。武器を取って人を傷付けるという行為は、許されることではないと思っていた。 だから……ただ、逃げていた。 けれども ―― 今までに感じたことのないほど強い怒りが、ユライアの心を揺さ振っていた。 この男たちは、他の生命を傷付けることを楽しんでいるのではないだろうか? 禍神の化身だと言っては自分を追い、その周りに居る存在を害していく。 それを、すべてユライアが禍神の化身だから周りが不幸になるのだと言い募る。この世から禍いをなくすためなどではなく、彼らはその行為自体を楽しんでいるようにしか見えないのだ。 「おまえは災禍を連れてくる禍神なんだ。神聖五伯が創り賜うたこの人世から居なくなるべきだっ!」 白狼を殺し血を見たことで、どこか恍惚と気分が高揚していた。男たちはその殺意と高揚感をぶつけるようにユライアに向かって突進してくる。 「私は……ここに居る。ずっと!」 アスレインを背後に庇い、ユライアは突っ込んでくる男を棒で強く振り払った。往なされた男は大きくつんのめり、小さく開いた咲夜蒼花の双葉の上に倒れ込むように崩折れる。 「 ―― やだっ!」 瞬間、アスレインは駆け出していた。せっかく芽生えかけた咲夜蒼花の双葉。ユライアの夢の花。それを、駄目にさせたくなかった。 ユライアがあの双葉を見つけたときの、これ以上はないというくらいの笑顔を思う。絶対に、守りたかった。あんな奴らに、踏み躙られてたまるものかと思った。 「アスレイン、私から離れるなっ!」 突然自分から離れて駆け出したアスレインに、ユライアは慌てて呼びかけた。離れては守り切れないかもしれない。それだけは嫌だ。ユライアは少女を引き寄せようと必死に手を伸ばした。 「え?」 アスレインは大好きな青年の切羽詰った声に振り返り、そして、見た。 自分を引き寄せようと手を伸ばしたユライアの背後に振り上げられた……月の光を浴びて無気味に光る細長い剣を。 一瞬、先ほど喉を切り裂かれて倒れ伏した白狼の姿が脳裏をよぎる。石をぶつけられて血を流したユライアの姿も ―― 。 「だ、だめーっっ!!!」 何がなんだか分からなかった。ただ、アスレインは走った。自分はこんなに速く走れたのか。そう驚くくらい、迅速に。ユライアの元へ走り戻っていた。 「 ―― アスレインっ!?」 それは、一瞬のことだった。 けれども、まるでスローモーションのようにゆっくりと、ひどく長い時間に感じられた。 闇の中でもよく目立つ綺麗な金色の髪が、ふわりと、風もないのに宙を流れてくる。そしてそれを追うように、アスレインの体がくずおれていく、その瞬間を……。 「……あ…うぁぁぁぁっっ!!」 ユライアは、吠えるように絶叫した。 アスレインの胸には、自分を貫くはずだった細い剣。ほとばしる、鮮血。 「どうして……どうしてこんな!!!」 アスレインを胸にかき抱き、ユライアは叫んだ。ゆるゆると彼女の身体から流れ出る鮮血に身を浸しながら、苦しげに唇を噛む。 「許さない……おまえたちなど……消えてしまえばいいっ!」 薄藍色の瞳がまるで焔のように燃え上がり、ひどく男たちを睨み据える。その激しい両眼から、ひとすじの涙が零れ落ちた。 刹那、閃光がはじけたような眩い光が辺りをいっきに覆いつくした。 ぱあっと、泉の周囲が昼間のように明るくなる。まるで太陽が目の前に落ちてきたかのような強い光と激しい熱。 その兇暴ですらある眩い光は、ユライアから発していた。 神聖太陽王が手ずから創ったユライアの魂。闇王の『愛撫』さえ受けなければ、太陽王の子として祝福されて生まれたはずの生命。その、魂の深奥に押し込められた力が一気に暴発したかのような、それは強い光だった。 それが……灼熱の炎が、男たちの体だけを瞬時に。そして跡形も無く灼きつくす。怖れる隙もなかっただろう。彼らが光を認識したその瞬間、既に身体も命も。熔けて消えていた。 まるで、最初からこの世になかったものであるかのように ―― 。 「……ユライア」 ふと、腕の中でアスレインが彼を呼んだ。 じっと男たちがいたはずの空間を睨んでいたユライアの瞳が、驚きに満ち少女に向けられる。 アスレインはにっこりと笑った。ユライアが無事でよかった。そう思った。 「アスレイン……」 僅かに蒼白になった少女を見つめ、ユライアは大切な少女の名を呟く。その薄藍色の瞳には涙。 今まで、涙を流したことなどなかった。そんなに強い感情を持ったことがなかった。けれど……ぽたりと、夜の始まりを思わせる薄い藍色の瞳から溢れ出た涙がアスレインの頬に落ちる。 アスレインは不思議そうに瞳を細め、ユライアの顔を見た。自分がどうなっているのか、アスレイン自身わかっていないようだった。ただ、周りにあの男たちがいないことに、ほっとする。 「ねえ、ユライア。あの人たち、帰ったのね? もう、あなたがここから出て行く必要もないよね?」 ユライアはゆっくりと頷いた。哀しい表情のまま、口元だけ穏やかな笑みをつくる。 きっとアスレインは死んでしまう。そう思った。少しずつ、自分の腕の中にいる少女から生命が大気に流れ出し、失われていくのが分かる。どうしても、それを止められない。 けれど ―― ユライアは必死に笑顔をつくった。 「そうだよ。アスレイン、私はずっとここにいる。君のそばにずっといる……」 声が震えるのを必死で制し、青年は言った。 「そっか……よかったぁ」 嬉しそうにアスレインは微笑んだ。そして、ほんの少し視線を動かし、泉に目を向ける。あの小さな小さな希望の象徴。咲夜蒼花の双葉が無事かどうか、それを確かめたかった。 「あ……。花が、咲夜の蒼い花が、あんなに咲いてるよ。ユライア」 泉に向けられた蒼い瞳が一瞬驚いたように見開き、そしてゆっくりと微笑みをみせる。 泉の周り一面に、蒼い花が咲いていた。 さっきまで何も無かったただの草原。そこに、蒼く綺麗な花がこぼれるように咲いていた ―― 。 闇夜を照らす柔らかな月の光を結晶したかのような蒼い花。その姿は哀しげに、しかし毅然と、天に向かって美しい花を開いていた。 「とっても綺麗。本当に、願えば叶うんだね……夢って」 アスレインはにこりと目を細める。 「 ――― !」 ユライアは目を見張り、あまりのことに息を呑んだ。 この蒼い花は、まるでアスレインの生命そのものであるかのように見える。彼女の、流れ出た生命を得て咲いた花のようだと ―― 。 「……やっぱりユライアは禍神なんかじゃない。だって、こんなに嬉しい。あなたが居て……くれると思うだけで……こんなに幸せだも……の」 アスレインは溢れるような喜びを言の葉に乗せ、そしてユライアを見て笑った。 「ほんとう……に、よか……た……」 その蒼い瞳が、ふうっと光を失っていく。 「アスレイン?」 ユライアの服をしっかりと掴んでいた腕が、力を失いぱたりと落ちる。 「アスレイン……アスレイン、アスレインっ!?」 何度もその名を呼んだ。 けれどもう、その呼びかけに応える声はない。 ぽたりぽたりと、ユライアの瞳から溢れる幾筋もの涙が、アスレインの髪を、頬を濡らした。 「 ――― ?」 ふわりと、風が吹いたような気がして、ユライアは顔を上げた。 ゆらゆらとアスレインの髪が風をはらむように舞い、そこからさらさらと金色の粒子が風に流れ込んでいるように見える。 それは、錯覚だったのかもしれない。けれども確かに、風が輝いていた。 「……花が?」 あたり一面に開いた咲夜の蒼い花は、アスレインの生命の灯火が消えると同時にはらはらと、まるで涙を流すようにその花びらを散らせていった。 花弁を失った蒼い花は、けれども中央に それが、風に乗って宙に舞い上がる。いくつもいくつも、空に舞い上がる。 まるで、地上に咲いた咲夜蒼花が、こんどは天空に咲き乱れたようにユライアには見えた。 禍いを生むと云われた真闇の夜空が優しい光の珠玉をその身に宿し、柔らかな闇になる。まるで、それは咲夜蒼花の……アスレインの生命の輝きを援けに、唯一闇に対峙していた優しい月姫が真闇の王を打ち破り、その銀色の輝きを闇夜に広げたかのようだ。 「こんな……こと……」 ユライアは破れるほどに唇を噛んだ。 自分と真闇の王を繋いでいた忌まわしい縁の鎖が、その珠玉の輝きを受けてゆっくりとほどけていくのが分かる。 もう、夜の闇に恐怖はなく、美しい花の咲く優しい闇空が広がっていた。 「……アスレインと引き換えになら……咲夜蒼花なんて……こんな自由いらなかった……」 ユライアはもう動かない少女の体を抱きしめ、血を吐くようにそう叫ぶ。 それは慟哭。失ってしまったものの大きさに、美しい闇空の下に解き放たれた哀しみ。そのユライアの嘆きに、森も悲しむようにざわざわと木葉を揺らしていた ―― 。 |
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