++ 忘れ水に眠る鬼 ++
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最終話 『別離わかれの刻』



 この閉じられた空間。実斐が『檻』と言ったこの場所の出口……鍵を探す。そうは言ってみたものの、どうすればいいのか悠音はさっぱり分からなかった。
 自分は世にいう陰陽師などでもない。普通の学生だ。テレビや雑誌などでよくやっているオカルト系の特集などもあまり見ない方だし、呪術的なことはまったく分からない。
 この藤城神社の『神迎の神事』の射士に選ばれたのだって、単に自分が弓道である程度の成績を治めているからということ。そして親の財力の賜物なのだということは悠音自身わかっていた。神秘的で不可思議な力があるわけではないのだ。
「ねえ。何かヒントみたいなものはないの?」
 いくら考えても分からずに、困ったように悠音は首を傾げた。家の扉を開けるような、あの"鍵"などではないことはなんとなく分かる。だからといって何を探せばいいのだろうか?
「我が創り出した結界ではないのだから、知るわけがなかろう」
「だって、長い間ここに居たんでしょう? 何か手掛かりくらいは掴めてるんじゃないかなって思ったのに」
 役立たず、とまでは言わなかったが、悠音は口を尖らせてそう言った。偉そうなことを言っている割には、この青年だって出口をまったく知らないのじゃないか。
「……ずっと眠っておったのだ。鍵を捜す時間などあるはずがなかろう。我に分かるのは、在るべきものを失くすことによって現世うつしよから切り離された空間が、鬼を封じる結界オリとなる、ということだけだ」
 知らないことを指摘されたのが不満だったのか、どこか拗ねたように青年は口を曲げた。こういうところは、本当に子供のようだと悠音は可笑しく思う。
 けれども不意に、拗ねていた鬼の青年は何かに気がついたように悠音の方に向きなおった。
「そなたは、どうやってここに来た? 現世では無いはずのこの場所に」
「え? さっきも言ったでしょ。落ち葉に隠れるように水が流れているのが見えたから、気になって近付いて来たのよ」
 その瞬間に突風が吹いて、気がついたら目の前でこの青年が眠って居たのだ。何か特別なことをして、ここに入り込んだわけではない。
 実斐はふんと皮肉るように口端を吊りあげると、何かを吟味するように睫毛を伏せて考え込んだ。うつむくその白い頬に、紅葉のような深紅の髪がさらさらと落ちかかる。その隙間から、蒼銀に輝く角が見えた。
 ふと、悠音は青年の紅い髪の隙間から覗く、美しい月にも似たソレに触れるように、そっと手を伸ばす。
「なんだ?」
「あ……ごめん。ちょっと気になって」
「ツノが、気になったのか?」
 困惑したように、実斐は眉根を寄せた。この少女のすることは本当に不可解だと思った。普通の娘ならば ―― ここに封じられる以前に自分が居た場所の話だが ――鬼である自分を怖れて誰も近付きはしない。ましてや角に触れようなどとする者は皆無だったのだから。
「うん。とても綺麗だから、つい……ね。それに ―― いま紅い髪の隙間からその角が見えた時、何か思い出しそうだったの。ここに来るときのこと」
 考え込むように、悠音は言った。
 そのまま少女が無言になったので、青年も深く問い質そうとはせずに軽く腕を組んで楓の木に寄り掛かる。
 彼女がここに来た時の状況を考えながら、実斐は何気なく木の脇をとおる細く澄んだ水の流れを見やった。ここの水流は彼女の言葉とは違い落ち葉に隠れているわけでもなく、さらさらと小川の様相を示してる。しかし ―― 。
「……もうひとつ訊こう。そなたは何故その水の流れに気がついたのだ? そなたの話によれば、落ち葉に隠れるように流れていたのであろうが。離れた場所からも、そんなに簡単に分かるものか?」
 じっと漆黒の瞳を向けられて、悠音はその時のことを思い出そうと目を閉じた。
 確かあのとき、紅く敷き詰められた紅葉のじゅうたんの隙間から何かきらきらと光るものが見えたのだ。だから、自分は目を凝らして ―― 。
「うん、そうだ。たぶん陽の光が水に反射して、落ち葉の隙間が光って見えたんだ。だから気がついたのよ」
 天高く輝く太陽。あの陽光が水に反射しなければ、ここに自分が足を踏み入れることはなかったかもしれない。考えようによっては、自分はあの太陽にここに導かれたのだ。そう思いながら、悠音は何気なく空を見上げた。
「 ―― !?」
 はっと、少女の大きな目がさらに見開かれた。
 慌てたように、傍近くに置いていた巾着袋を……否、巾着袋の紐に付けていた腕時計を見やる。
「……どうしたのだ、悠音?」
「もう、こんな時間なの!」
 時計の針は、四時を過ぎたところを指していた。この青年と出逢って、すでに四時間以上が経過していたのだ。そんなに時間が経っていたとは気付きもしなかった。
 今さら神事の時間が気になったわけではない。ただ、おかしいと思ったのだ。ここまで時間の流れに気がつかなかったことが。
「時計の針は進んでる。でも、太陽の位置が変わってないのよ。私がここに来た時から、まったく」
 悠音がここに辿り着いたのは正午よりも前だ。今はもう夕刻が近い。それなのに、太陽は変わらず中天に在る。陽の高さが変わらなかったから、自分はそんなに時間が経過しているとは思わなかったのだろう。
「そう言われてみれば、そうだな」
 漆黒の瞳を眩しげに細めて、実斐は天を仰ぐ。彼女が持っている"腕時計"という物はよく分からなかったが、確かに太陽の位置は自分が目覚めた時となんら変わりがないように見えた。
「そうか ―― 。我を封じたこの空間オリが失くした"在るべきもの"とは……"時の流れ"か。それならば、時が止まった象徴……あれが鍵か?」
 青年は動かぬ太陽を見つめたまま、そう呟いた。
「太陽が鍵だとしたら、どうすればいいの? ドアの鍵みたいに鍵穴に鍵を挿すってわけじゃないものね……」
 悠音は一度太陽を見やり、そうして鬼の青年の顔を見やる。彼ならば、その答えを持っているだろうと思った。何せ呪術的な事に疎い自分とは違って、彼はそういうことが盛んだった時代の人間……いや、鬼なのだから。
「ふん。鍵は壊せば扉が開く」
 にやりと、青年は笑った。その自信たっぷりのあざやかな微笑みに、思わず悠音は見惚れてしまう。しかし、その言葉の意味を理解してうんざりしたように溜息をついた。
 まったく、太陽を壊すだなんて何をどう考えたらそんなふうに自信たっぷりに言えるのだ。
「あのねえ……どうやって太陽を壊すって言うのよ」
 思わず呆れたように答えると、実斐はさらに呆れるようなことを少女に言ってのける。
「そなたが弓で、壊すのだろうが」
「…………」
 絶句するとはこういうことを言うのかと、悠音はがっくりと両手で頭を押さえた。あまりにも馬鹿らしくて、返す言葉もなかった。
 太陽まで届くほどの強弓の持ち主が、いったい世界中のどこにいるというのだろうか。そんな馬鹿なことは有り得ない。悠音はゆるゆると頭を振って、非常識なことを言う鬼を見やる。
 けれども、実斐は切れ上がるような笑みを浮かべて僅かに顎を上げた。
 やれ。そう命じられているようで、悠音は一瞬腹が立った。しかし、
「……分かったわよ。やればいいんでしょ?」
 不服そうに頬をぷくりとふくらませて、悠音は仕方なく弓の仕度を始めた。とりあえず、試すだけ試してみようと思った。それでダメだったならば、あとでこの鬼の青年に文句を好きなだけ言ってやればいいのだから。
「私、上に向けて射ることなんて今までになかったし、届かないかもしれないよ?」
「ふふん。あれは、太陽であって太陽ではない。この空間を閉じるための鍵だ。そんなに的は遠くない」
 ぽんっと、まるで宥めるように軽く頭をはたかれて、悠音は諦めたように苦笑した。勝手なことを言っているなぁと思ったけれど、彼がそう言うのであれば、きっとそうなのだろう。何故かそう思えた。
 潤朱色の筒袋から弓を取り出し、慎重に弦を張る。もうひとつの巾着袋からはユガケを取り出し、しっかりと右手にはめた。
 これをはめるとき悠音はいつも心が落ち着くような気がする。これから自分は弓を引くのだという気持ちが自然にわいてきて、とても静かな気持ちになれるのだ。
 そして普段の筒袖の道着とは違う神事用に着ていた霞色の小袖の、揺れる袖を留めるように手際よく襷がけをする。
「じゃあ、やってみるね」
 緊張と不安を払うように悠音が青年の顔をちらりと見やると、実斐は微かに笑んだように見えた。
 なんとなくほっとして、心を落ち着けるように呼吸を整える。しっかりと足場を確かめるように姿勢をつくり、空を見上げた。
 あの太陽……鍵を壊せば、この閉じた空間から抜けることが出来るのだ。
 ―― ここを出たら、もう実斐とは会えないのだろうか?
 ふと。悠音はそんなことを考えて、僅かに眉をしかめた。これではまるで、自分があの鬼と離れたくないみたいではないか。確かに……あの美しい鬼の姿に見惚れはしたけれども……そんなことは有り得ない。
 そんな馬鹿な思いを振り払うように軽く頭を振ってから、悠音は心を決めるように弓に矢をつがえ、もう一度太陽を見やった。
 眩しい。けれども目を細めるように眩しさを抑え、射るべき"的"を視線の先にしっかと捕らえる。そうしてゆっくりと、矢を頭上に掲げるように弓を起こした。
 ―― 心を無にして。ただひたすら的を見つめなさい。そうすれば、真実が見えてくるよ。
 弓道を始めてスランプに落ち込んだ時、師に言われた言葉が脳裏に響く。
「……私はただ、あれを射る。それだけだわ」
 すべての雑念を振り払うように呟いて、的を見つめて弓を引きしぼる。ギシっと弓のしなる音が悠音は好きだった。気持ちまでもがキリキリと引き締まるような気がする。こうなると、自分は迷いも何もなくなるのだ。
 不意に、太陽の中に何かが見えた。眩しさをこらえて目を凝らすと、それは珠のようにも見える。あれが鍵だと、悠音はそう直感した。
「ほう……」
 弓を構える少女の身体全体。そのすみずみまでに力が込められているのが分かる。それなのに、何故か身体は微動だにもせず、弓と一体になって的だけを狙っている。一心に射を行うその姿が美しいと、実斐は思った。
 思わず呼吸をするのも忘れるくらいに少女の姿に見入っている自分に気がついて、紅い鬼は苦笑する。あと少しで自分はようやく解放され、千年ぶりに自由になれるというのに。その嬉しさの中に漂う一抹の寂しさはなんなのだろうか?
 実斐が困惑するように目を伏せたとき、びぃんと何かが弾ける様な重厚な音がした。
 はっと顔を上げると、悠音の右手が矢筈から離れ、風を切るようにまっすぐと的に向かって飛び去る矢が見えた。
 刹那、ぱり……んと珠玉が割れるように高く儚く玲瓏な音がして、太陽がゆらゆらと崩れるように揺らめいた。
「やったあっ!」
 矢が"的"に当たったことを知って、悠音は思わず青年に飛びついた。
 突然飛びつかれて、実斐はやや慌てたように少女の身体を抱き留める。けれどもすぐに賞賛するように目を細め、彼女の栗色の髪を優しく撫でるように微笑んだ。
 たったの一矢にて決めるとは、さすがに思っていなかったのかもしれない。
「これで、出られるんだよねっ」
「そのようだな。空間が、開かれた」
 にこりと笑った青年のその表情がとてもすこやかで。綺麗で。悠音は何故だか嬉しくなった。
「ねえ、実斐さん。あなたは……」
 自由になったらどうするの? そう訊こうとして ―― 悠音は一瞬立ち竦んだ。
 閉じられた空間に開いた穴。そこに吹き込むように、ごおっと音をたてて突風がわきおこっていた。木々の紅葉や落ち葉を巻き込んで、紅い竜巻のように風が吹く。
 その紅の風に溶けるように、紅い鬼の姿は唐突に彼女の目の前からかき消えていた ―― 。


「逢沢さん……一瞬消えたように見えたから、驚きましたよ」
 不意に、ぽんっと肩を叩かれて、悠音は驚いたように振り返る。そこには神職の宇山が苦笑するように立っていた。
「宇山……さん?」
「もう準備されたんですか? 射場まであと十分ほどかかりますけど」
 ぼんやりと自分の名前を呼ぶ少女に、宇山は首を傾げる。いつのまにか、少女が巾着袋から荷物を取り出して弓の準備を終えているのが不思議だった。
「……え?」
 何が起こったのか分からなくて、悠音は目を瞬いた。
 周囲には相変わらずの美しい紅葉が広がっている。さっきと何も変わらない。違うのは、隣に居るのがあの美しい鬼の青年ではなく、この初老の男ということだけだった。
 ふと天を見上げれば、太陽は天高くに輝いている。
「いま……何時ですか?」
 おそるおそる、悠音はそう訊ねた。ちらと見やった自分の時計は……既に五時に近い。
「えーっと、はいはい。ああ十一時二十分ですね。いそいで射場に向かいましょう。神事に遅れては大変ですから」
 宇山は腕にはめた時計を見やり、そう答える。
 ―― 戻ってきたのだ。
 悠音は深く溜息をついた。
 自分は、あの閉じられた空間へ行く前の時間に戻っているのだ。あれが夢や幻などではないということは、今の自分の格好を見ても、五時を刻むこの時計でも分かる。
 あの閉じられた空間は"時の流れ"が失われていたのだと実斐は言っていた。だから、あそこに居たあいだの"時間"はなかったことになっているのだろう。そう思った。
 だとしたら ―― あの鬼の青年も、やはり彼が封じられたという千年もの昔に戻ったのだろうか? もう、会えないのだろうか?
 何故だかぽっかりと心に穴が開いたような気がして……悠音は泣きだしたいと思った。けれども必死にこらえるように深く呼吸をする。
 俯いたその目にさらさらと細く流れる水が見えて、少女はそっとしゃがみこんだ。
「…………」
 落ち葉に隠れるようにたゆたう細い水の流れに手を浸し、ゆっくりと水を掬いあげる。あのとき青年がくれた水のように、甘い香りはしなった。やはり"あの場所"と違うのだ。そう言われているようで、少し哀しくなった。
「ああ、逢沢さんが見に来た"水"って、これのことだったんですか」
 とつぜん神苑の中に踏み込んで行った少女の"道草"の理由を知って、宇山はにこにこと笑った。
「驚きましたねぇ。こんな所に水流があるとは……。前からあったかなぁ?」
 考えるように首を傾げる。しかし思いだせなかったのか、男は軽く肩をすくめた。
「こうやって人知れず、木々の合間を絶え絶えに流れる水を『忘れ水』と言うんだそうですよ。しかも一年の中でも秋や春のほんのひとときだけしか人目に触れない流れだそうですからねぇ。こういうのを見つけると、ちょっと得した気分になりますね。逢沢さんが駆け寄った気持ちも分かりますわ」
 白髪まじりの髪をくしゃくしゃとかきまわして、宇山は何度も頷いた。
 しかし少女に起きた出来事を知るはずもない初老の男は、それ以上の感慨は当然のように抱かずに、諭すような表情で悠音を見やった。
「でも、あまり見ている時間はありませんよ。そろそろ射場に参りましょう、逢沢さん」
 急かすように少女を促して、宇山はゆっくりと来た道を戻るように歩きだす。
 ―― もう、封じるべき鬼はここにはいないのになぁ。
 悠音はちょっと寂しげに笑った。
 千年もの永い時をこの忘れ水の流れる楓の許で眠っていた紅い鬼は、既に自分が解き放たってしまったのだから。
 けれどもそんなことをこの神職の男に言えるはずもなく、ここでじっとしていても仕方がないので、諦めたように荷物を背負うと悠音は宇山の後ろにつくように落ち葉の道を歩きだした。
 ざああっと、ふいに強い風が吹いた。紅く燃える木々の葉が大きく揺れて舞い上がる。
『いつかそなたを喰らいにゆこう。我は ―― 欲しい物は必ず手に入れる。覚悟しておくがよいぞ』
 美しく心地よい鬼の声が聞こえたような気がして、悠音は風に揺れる木々を仰いだ。
 そこにはもちろん、鬼の姿はなかった。けれども ―― 。
「喰らう気なんか、ないくせに」
 くすくすと、悠音は笑った。
 鬼の青年の髪の彩と同じ。紅く染まる木々の葉がざわざわと葉擦れの音を響かせる。夢幻的なまでに美しい紅葉の天幕が風を孕み、少女の見上げる空いっぱいに広がるように優しく雅に揺れていた。
 再び彼女にまみえんことを、約するかのように ―― 。

『忘れ水に眠る鬼』 おわり


第参話 『ひとときの休息』目次


2006.9.26 up

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