++ 忘れ水に眠る鬼 ++
前頁目次次頁






第弐話 『出口を探して』



 鬼だと名乗った青年は、狼狽しまくる少女を尻目にうーんと大きく伸びをして見せる。その人間くさい仕草はどう考えても世に云われる『鬼』だとは思えなかった。
 それに ―― 悠音が知っているおとぎ話に出て来る鬼といえば、とにかく乱暴者で残酷で人を喰らう悪者だ。中には『赤鬼と青鬼』の昔話のように良い鬼もいるけれど、得てしてそれらはみな頭に角が生えていて、ゴツくてそれこそ鬼瓦のような顔をしているのだ。こんなに美しい人ではない。
「……神事の中で鬼役をやるってこと?」
 いろいろと考えて、悠音は一番落ち着く答えを出してみた。彼は自分で『藤城実斐』とも名乗っていた。藤城というからには、この藤城神社の縁者なのだろう。彼の古めかしい話し方も、すでに役になりきっているからなのだと思ってみる。
「役とはなんのことだ?」
 ふふんと馬鹿にしたように少女を見下ろして、青年は笑う。あくまでも、しらをきるつもりらしい。
「あのね、藤城さん……」
「我を呼びたくば、実斐さねあやと呼ぶがいい」
 なぜか偉そうに主張する青年に、悠音は溜息をついた。神事で弓を引く為に神社に来た自分が、何故こんな場所でこんな男と話をしているのか。よく分からなくなってくる。
「……じゃあ、実斐さん。鬼になりきるのは構わないけど、もうすぐ神事の時間だと思うの。さっさと小道に戻って、神事の行われる射場に行きましょう」
 悠音は巾着の紐に付けていた時計をちらりと見やる。神迎え神事の事初め。神矢献上式が行われるのは正午ということだった。あと、三十分ほどしかない。
 けれども控え室から射場までは二十分ほどだと言っていたので、さっきの小道に出られればあと十分もあれば着くことができるだろう。ただ、その小道になかなか辿り着けないでいたのだが ―― 。
「ふん。何を言うのかと思えば。我は神事など知らぬと言うておろうが」
 どこか拗ねたような口調で、青年はぷいと横を向いた。
「……だがまあ、この"場所"を出るというのは我も同じ事。一緒に行っても構わぬよ」
「はいはい。じゃあ、一緒に行きましょうね」
 青年の表情がどこか子供のようで、思わず悠音は吹き出していた。偉そうな口調のわりにはこういう子供っぽい可愛い反応もするのかと、可笑しかった。
「よろこぶのか……娘。おかしな奴よの。我にとっては獲物がすぐ傍に居るのは悪くない話だから承知したまでだが」
 くつくつと喉を鳴らすように実斐は笑う。
 それはとても冷えた笑いで。さっきの表情が可愛いと思ってしまったことを、悠音は思わず後悔した。自称"鬼"のこの青年は、一瞬ごとに表情も反応も違う。まったくもって付き合いづらい相手だった。


「さっきも、まっすぐ歩いていたらけっきょくこの場所に辿り着いたのよ」
 ひと巡りして再び大楓の元に戻ってきた悠音は、うんざりしたように頭を振った。同じ景色に惑わされて迷っていたのかと思ったのに、どんなに注意深く歩いても結局ここに来てしまうのだ。どうして良いのか分からなくもなる。
「なんだ。我を起こしに来たのだから出口も知っているのかと思えば……使えぬな」
 実斐は悠音の神経を尖らせるようなことを平気で言ってのける。思わずぷちっと切れそうになるのをこらえつつ、悠音はキッと青年をにらみつけた。
「ちょっとはあなたも考えたらどうなの?」
「ふん。考えるも何も、そなたがずんずん歩いて行ったのではないか。歩いただけで出られるような場所なら、我とて幾百年もここには囚われておらぬわ」
 思い切り馬鹿にするように、実斐は冷笑を浮かべてみせる。無駄に艶やかなその笑みが、余計に悠音のイライラを募らせた。
 確かに先を急ぐように歩いて行ったのは自分だけれども、それが無駄だと分かっていたならば止めてくれれば良いではないかと思うのだ。そして何か方法を考えるべきなのだ。
「じゃあ、どうするのよ」
「……まあ、これでも飲んで落ち着くがよい」
 少女の不機嫌さとは対照的に、何故か青年は機嫌よさそうに軽く笑んだ。袂を押さえるように音もなく屈むと、脇を流れる水流から大きな木の葉に水をすくって悠音に渡す。そうして自分は、白い手ですくうように水を飲んだ。
 確かに歩きとおしで喉は渇いた。しかしこんなところに流れる湧き水みたいなものを飲んで大丈夫なのだろうか? 悠音は紅い葉に容れられた水を見やり、いささか不安になる。けれども、こくん。こくんと美味しそうに青年の喉が動くのをみて、安心したように葉に汲まれた水を口にした。
 水は、ほのかに甘い香りがした。それが葉の移り香なのか。それとも青年の匂りなのかは分からなかったけれど。
「そうだ。私、この水の流れを見つけてここに向かってきたのよ。だから、この流れを見たまま後ろ向きに歩いたら、間違うことなくまっすぐに進めて、小道に戻れるんじゃないかしら?」
 今までは楓の大木だけを目印にまっすぐ歩いていたけれども、目印がひとつだと逸れやすい。だから、大木と水流の両方の位置関係を目印にすれば、感覚のズレが少ないに違いない。
 ふと思い浮かんだ方法を、目の前にいる青年に言ってみる。水を飲み終わって大木に寄り掛かっていた実斐は、どこか面白がっているふうに、可笑しそうに目を細めた。
「ほう、ならばやって見るがよいぞ。我は前を向いてそなたについて行こう」
 いまだに方向感覚のせいで迷っているのだと思っているらしい少女をからかうように言う。
「わ、わかったわよ!」
 悠音は負けじとそう答えて、ずんずんとうしろ向きに歩き始めた。
 足元が葉で滑りやすい上に、彼女が履いているのは草履である。しかも袴で歩きづらい。それを川や楓の木を見つめたまま後ろ向きに歩くのだ。いつ転んでもおかしくないような状況だ。
 それを楽しそうに眺めながら、実斐はゆっくりと彼女の隣を歩いている。何も知らない者がこの光景をみれば、どんな滑稽な様子に映ることだろう。悠音は腹が立って仕方がなかった。
「 ―― きゃっ!?」
 苛々に気を取られたせいか、つい足元の注意力が散漫になっていた。ずるりと落ち葉に草履をとられ、がくんと頭が落ちていく。弓道具を背負っているので余計に重心がうしろに傾き、そのままどすんと転がるかと思われた。
 このまま転がればイヤというほど頭をぶつけるだろうな。それより背負っている弓は無事で済むだろうか……などと、やけにのんびりした事を考えながら、悠音はぎゅっと目を閉じ痛みが来るのを待った。
「…………?」
 けれども。いっこうに地面の硬さは背中にも頭にもぶつかってこなかった。
 ふと目を見上げると、墨色の狩衣の胸元がすぐ目の前に見える。背中には、なにか暖かく柔らかな感触がした。
「意外と軽いのだな」
 可笑しそうな声が頭の上から降りそそいで、悠音ははっと気がついた。自称鬼だというあの青年が、後につんのめりそうになった自分を抱き止めるように助けてくれたのだ……と。
「あ、ありがとう……」
 青年の腕をつかむようにして慌てて体勢を立て直すと、悠音は気恥ずかしげに礼を言う。実斐の今までの態度を見る限り、まさか助けてくれるとは思っていなかったのだ。
「ふふん。殊勝な態度よのう。素直な娘は嫌いじゃない」
 ぽんっと軽く少女の栗色の髪をはたいて、実斐はにやりと笑った。その表情がどこか優しく思えて、やっぱりこの人は鬼なんかじゃないじゃない。そう、思わず可笑しくなる。鬼が、人を助けたりするはずもないのだから。
「それで……これを見れば気は済むか、悠音?」
 実斐は肩をすくめるように前を……悠音にとっては背後の方を指し示す。何のことか分からずにうしろを振り返って、少女は息を呑んだ。
 そこには ―― やはり先ほどと同じ。楓の大木と細い水の流れが当たり前のように存在していた。
「え……だって、滑る前まではちゃんと川も木も見えてたんだよ……なんでいきなりそれが後ろに在るのよ!?」
「だから我が何度も言うておるであろう。ここは檻なのだと。出口を……鍵を見つけねば出ることは叶わぬ」
 すべては自分を封じる為にこの楓の大木を中心に空間が閉じられているのだと、皮肉げに頬を歪めて青年は天を仰ぐ。
 この少女はその目で確かめ、心から納得するまでは自分の話を信じないだろうと悟り、いままで好きなようにさせていたにすぎなかったのだ。
「出口も知らぬのに、我を起こしに来たがそなたの運の尽きよ」
 くつくつと笑って青年はいう。
 空高く天は広がり、周囲には赤々と燃える紅葉の木たち。本当にそれ以外はなにも存在していないかのように、聴こえるのは葉擦れの音ばかり。街を走っているはずの車の音も、人の声も。鳥のさえずりさえも聞こえない。
「……こんなことって、起こるのね」
 悠音はようやく事態の異常さを心から納得して、僅かに肩を震わせた。どこか他人事のようにこぼれ落ちたその言葉も、不安を隠せず揺れていた。
 別に彼を起こしにこの場所へ来たわけではないのだが、この空間が閉じられているというのは自分で何度も体験して納得せざるを得なかった。それでは ―― この青年が鬼だというのも、やはり本当のことなのだろうか?
 彼を封じるために空間が閉じられているというのであれば、それは確かなことなのだろうと思う。しかし……。
「じゃあ……あなたは本当に鬼なの?」
「なんだ。まだ信じておらぬのか?」
 くすりと、実斐は笑った。その笑顔は美しすぎることを除けばどう見ても普通の人で。さっきだって渇いた自分に水をくれたり、転びそうなのを助けてくれたりもしたのに。
「だって、鬼なら角があるはずでしょう? それに、暴力的で残酷で人を喰らうって聞いたことあるもの」
 昔話に出てくる鬼たちの姿を想像しながら、悠音は反論を試みる。
 くすくすくす。青年は心底可笑しそうに笑い声を上げた。そっと少女の頬に手を伸ばし、最初に会った時と同様に軽く撫でるように指を滑らせる。
 先ほどと同じ心地よい感触。逆らうに逆らえない、甘美な魔法のようだと少女は思う。それが不意に、刺すような痛みに変わった。爪を、強く立てられたのだとわかった。
「 ―― 痛っ!?」
 慌てて青年の手を振り払い、爪を立てられた場所を庇うように手をあてる。引っ掻くように出来た小さな傷には、うっすらと血が滲んでいた。
「言うたであろう? 力戻ればそなたを喰らうと。まだ……戻っておらぬ。忌々しい封印が我を抑え込んでおるうちは、まだ人を喰らうだけの力が足りぬよ」
 青年は妖しい微笑を浮かべて僅かに血のついた指先を舐める。
「ふふふ。でもまあ、先ほどよりは戻っておるようだがな」
 さっきは少しの傷もつけられなかったのだからと、実斐は怖ろしいことを言う。
 もし彼が目覚めたあの時に"力"があったなら、自分はあそこで殺されていたのかもしれないとようやく悟り、悠音は血の気を失ったように蒼褪めた。
「完全に戻るにはもうしばらく掛かりそうだが……その前に出口が見つかれば喰らわぬよ。再びアレに封じられるその前に、我を起こしたはそなたの"功"だからの」
 少女の頬につけた傷を見やり、実斐は楽しそうに笑った。
 そうして再び、少女の頬に手を載せる。びくんと、逃げるように悠音は身を捩らせた。
「いやっ……」
「馬鹿者。動くでない」
 そんなことを言われても、悠音だって怖いのだ。そう簡単に青年の言うことなど聞けるものではない。
 けれども ―― 次にこぼれた実斐の困ったような口調に、思わず悠音は目を見開いて身動きするもの忘れた。
「今は喰らわぬと言うたであろう。傷を治すのだからおとなしくしておれ」
 傷を治す。確かに彼はそう言ったのだ。頬に触れた青年の手からふわりと暖かな熱を感じる。その熱を感じなくなる頃には、今までズキズキと疼いていた傷の痛みが消えていた。
「喰らいもせぬのに傷付けて悦ぶような趣味は持ち合わせておらぬよ」
 驚いて目を見張る少女に、実斐は苦笑するように口端をつりあげた。
 でもさっきは傷付けたじゃないかと悠音が反論すると、実斐はふんと横を向いた。
「……いつまでたってもそなたが我を鬼と信じぬからだ」
 その口調も表情も拗ねた子供のようで ―― 悠音はやっぱり分からなくなっていた。さっき自分に傷を付けたのは確かにこの男なのに。治してくれたのもまたこの実斐なのだ。
 既に頭ではこの男がここに封じられていた"鬼"なのだろうということを理解していた。けれどもやはり、心のどこかでそれを納得したくない自分がいるのも確かだった。
「…………」
「分かったのなら、さっさとここを出る方法を探すのだな。我の力が戻る前に……」
 まっすぐと自分を見つめてくるその漆黒の瞳に、悠音は思う。
 この人はもしかして、本当は自分を"喰らう"つもりなどないのではないだろか……と。自分に都合の良い勘違いかもしれなかった。しかし青年の漆黒の瞳はどこか哀しげで。優しげで。そして、強い。
 どうしても酷い人間……否、酷い鬼だとは思えなった。
「うん……。でも、少し休みましょう? もうどうせ神事には間に合わないし、少し疲れちゃったわ」
 身体は疲れていなかったけれど、心が疲れた。
 悠音は背負っていた弓道具を下におろすと、ぺたりとその場に座りこんだ。
「暢気な娘よ……」
 力が戻れば殺すと忠告しているにもかかわらず、悲鳴を上げることさえない。ましてや急いで出口を探そうとするどころか休憩しようなどと言う少女に、実斐は呆れたように肩をすくめて笑う。
 まだ信じていないのか、それとも単に暢気なだけなのか ―― 。
「休めばきっと、良い考えが浮ぶもの」
「ほう。それでは、その良い考えとやらを楽しみにしておるよ」
 からかうように笑顔を見せた鬼の青年に、悠音はさっきの『喰らうつもりがないのではないか』という思いを強くする。本当に相手を喰らおうなどと思っているのであれば、こんな優しげな笑みが浮ぶはずもないだろうと思うのだ。
 しかし ―― 何かと理由をつけて目の前にいるこの青年を良く思おうとしている自分に、鬼に魅入られるというのはこういうことかもしれないと、思わず溜息をついてしまう悠音だった。


第壱話 『はじまりの刻』目次第参話 『ひとときの休息』


2006.9.19 up

Copyright(c) Maki Kazahara all rights reserved.