月に沈む闇
第四章 『西大陸連盟軍』
  


第四章 『西大陸連盟軍』

第一話

 壁に寄り掛かるようにして、シリアはきゅっと膝を抱えて座り込んでいた。
 もう、どれだけの時間をこうして過ごしているのか分からない。ただ、シリアは動くことが出来なかった。否、動き出そうという気力がわいてこなかった。
 リュバサの街を慌しく出立して以来、周囲の視線が何故だか痛い。移動中にも「裏切り」や「卑怯」などという言葉が、シリアの与り知らぬところで密やかに囁かれていた。
 ようやく帝国に侵攻されていない地域に入りティートの町に落ち着いてからも、それは改善するどころかひどくなったようにすら思える。
 リュバサでは街中の散歩を勧めていたヒューイが、外を一人で出歩かないようにと忠言するあたりから、嫌でもシリアは自分に対する周囲の感情の変化に気付かざるを得なかった。
 そしてまた ―― 兄のことがひどく気がかりでもあった。
 あのとき……リュバサの街で再会した時には兄が生きていたことを喜ぶあまり、状況を気にする余裕も無かったけれど、今になって思い返してみれば怪訝おかしいことは幾つもあったのだ。
 なぜ兄が国王フィスカに対して剣を向けていたのか。ヒューイが自分をつかんだまま、兄のところへ行かせてくれなかったのはどうしてなのか。
 そして何よりも ―― 兄は何故、自分が何度呼んでもこちらに来てはくれなかったのか。
 訳のわからないことが多過ぎて、頭がどうにかなってしまいそうだった。
「シリア……大丈夫か? 顔色が悪い」
 耳慣れた案ずるような声が聞こえて、シリアはハッと膝から顔を上げた。
 大きなマグカップを手に、ヒューイが部屋に入ってきたところだった。たちのぼる湯気とともにほのかに香る柔らかな匂いに、彼が温めたミルクを持ってきてくれたのだと分かる。けれども、やはりシリアは再びうつむくように顔を膝につけただけだった。
 先ほど様子を見に来た時とまったく同じ姿勢のままでいる少女を見て、思わずヒューイの眉間に皺がよる。ずっと黙りこくったままで、何か塞ぎ込むように思案しているシリアのことが心配だった。
 ユーシスレイアの裏切りによって彼女を取り巻く状況は一変したと言ってもいい。しかし敬愛していた上官の愛娘であり、今は敵となった友人の妹でもあるこの少女を害する気など、ヒューイにはさらさらなかった。
 自分が出来る限りは彼女を守ると、リュバサのあの城壁の上で声には出さずともユーシスレイアに誓ったのだ。たとえ独りよがりな誓いであったとしても、それが国王の命を救ったのだとヒューイは思っている。だからこそ、その約束を違えることはしたくなかった。
「シリア。ずっと食事もしていないらしいじゃないか。それでは身体を壊す。自分自身を大事にしなさい」
 娘を諭す父親のように、ヒューイはそっと肩に手を置きながらそう言った。その眼差しはどこか哀しげで……けれどもとても優しい。
 上辺だけではなく、彼が本気で心配してくれていることが判るのだ。とつぜん変わってしまった周囲の態度とは裏腹に、ヒューイだけは以前のままだということが、少しシリアの心を和ませた。
「……はい。ごめんなさい」
 こくんと、シリアは頷いた。
 差し出されたカップを受け取って、ひとくちミルクを口に含む。蜂蜜でも入っているのだろう。ほのかな甘さがふわりと口の中に広がった。
 自分が落ち込んだ素振りを見せた時などには、以前はよく兄もこうして甘いホットミルクを作ってくれたものだった。それを思い出して、シリアはきゅっと唇を噛み締めた。
「ねえ……ヒューイさん。お兄ちゃんのこと話して……くれる? いったい……何があったのか……」
 今まではその問いを発することが……答えを聞くのが、怖かった。
 けれども、このまま何も知らずにいることは何にもならないと思った。訊かなければ自分はこのままここで立ち止まるしかないのだと思う。それではあまりに愚かだ。
 だから。ようやく問い質す決心がついたように、シリアは眦を決してヒューイを見つめていた。
「シリア……」
 ヒューイは僅かに苦しげに眉根を寄せた。瞬間迷うように視線を泳がせ、けれども、いつまでも黙っていられることではないと、己の感傷を振り切るように軽く息をつく。
 本当ならば、もっと早くに伝えなければいけないことでもあった。それが出来なかったのは己自身の弱さであり、また、ヒューイ自身がユーシスレイアの変心を未だに信じられない気持ちがあったからでもある。
 リュバサが陥落して数日後、ユーシスレイア=カーデュの五騎士就任の報が正式に帝国より発せられたということは宰相リファラスから聞いた。しかしこれまでのどんな記憶を思い返してみても、軍神と呼ばれていたあの友は、カスティナを心から大切に思い、全力で守ってきたことしかヒューイには思い出せないのだ。
 だからこそ、ユーシスレイアが何故母国を捨ててあの悪名高い帝国などに奔ったのか ―― それがどうしても理解できなかった。
「……ユールは、カスティナではなくラーカディアストの将に……炎彩五騎士のひとりとなったんだ。そして、リュバサの街を攻め落とした。碧焔の騎士として」
 ユーシスレイアがカスティナを裏切り敵方へ寝返ったのだという直截的な言葉はどうしても口に出せず、ヒューイは固い口調でそう言った。
「うそ……お兄ちゃんが、あんな恐ろしい国の将に? そんなのありえないよ。だって……父さまや母さまを殺した国なのよ? そんなわけない……」
 周囲の様子から薄々とは感じていたそのことをハッキリと言葉にされて、シリアは表情を歪めた。
 そんなことは有り得ないと思った。あの優しい兄が父母の仇をとろうと奔走するなら分かるのに、その仇敵であるラーカディストの将となり、カスティナに刃を向けるなどと、あべこべもいいところだ。
「……嘘だったら、どれだけ良かったか」
「じゃあ……私のことを見捨てて? それで……おにいちゃんはラーカディアストを選んだの?」
 目の前で、少女の空色の瞳にみるみる大粒の涙が浮かびあがった。
 振り絞るようなその声に、ヒューイは胸が痛くなる。
 もちろんユーシスレイアは妹を大切に思っていたからこそ、あの状況で……本来ならば寝返ったばかりで絶対的に忠誠を示すべきなのに、カスティナの国王をみすみす逃すという選択をしたのだ。
 その旧友の心情は痛いほどに理解できるとヒューイは思う。
 けれども ―― シリアのもとには来なかった。否、正確には来られなかったのだろうが、彼女にしてみれば、それは兄に捨てられたように思えても仕方が無いのかもしれない。
「ユールが、おまえを見捨てるはずはないだろう? あいつは何よりも家族を大切に思っていた男だよ」
「……そんなのわかってるもの。だけど……でも……」
 くしゃりと、シリアは表情をゆがめた。兄が自分を大事にしてくれていたことはシリア自身が一番良く知っている。それでも ―― 。
 自分でもどうして良いのか分からずに、ただ、ただ、言葉にならない想いが涙となって、大きな瞳からあふれるように零れ落ちた。
「…………」
 そんな少女をなだめるように優しく頭を撫でてやりながら、ヒューイはふと、自分自身が言った言葉の中に何かを見つけたように目を細めた。
 ユーシスレイアが守っていたもの。それはカスティナ王国などという大きなものではなく、家族という小さな……けれどもかけがいのない、たった一つの存在だったのではないだろうか?
 己の前でとめどなく涙を流すシリアを見つめながら、ヒューイはようやく悟る。
 シリアが生きていると知ったときのユーシスレイアの驚愕ぶりと動揺から察するに、彼は妹の"生存"をそれまで知らなかったようだった。そして……母セリカはユーシスレイアを庇うように彼の眼前で死んだのだと、ヒューイはシリアから聞いていた。城に残った父アルシェの戦死も、彼ならば悟っていたことだろう。
 それならば ―― 大切な家族すべてを"失った"ユーシスレイアには、カスティナ王国を守り続ける意義はないのだ。もちろん、だからといってすぐに造反するというものではないが、そこで何かきっかけがあれば、彼は己の意志を貫き通すことが出来る強さをもっていることをヒューイは知っていた。
 旧友の意志が『帝国に属すること』だったというのは俄かには信じられなかったけれど、彼にそれを決意させる何かが、かの国には在ったのだろう……。
 そう考えると、ユーシスレイアの変心に疑問を抱く余地はない。ヒューイは苦笑するように溜息をついた。
「ラーカディアストに奔った本当の理由は本人にしか分からない。だが……ユールが自分の意志で選び取った道だというのは分かる。彼は己の忠誠を捧げるべき相手を母国の王ではなく、帝国の皇帝エルレア=シーイ=フュションに定めたのだろう」
 ヒューイは自分自身が納得するように、ゆっくりと言葉を発する。かの国の皇帝がどんな人物なのか。噂以上のことは定かには知らないが、地位や富などであの旧友が変心するとは思えなかった。だからこそ、ヒューイはそう結論付けた。
「だがあのとき……俺はシリアを人質にしてフィスカ陛下の助命をユールに迫った」
 不意に強く肩を掴むように少女を引き寄せて、ヒューイは低く言葉を発した。シリアの心で揺れる兄への想いに、何か支えとなる証が必要なのだと思った。だからこそ、わざと強い口調で言う。真実を告げることで、自分がこの少女の中で蔑視の対象となっても良かった。
「人質……」
「そうだ。そしてユールは苦悩の末に陛下を逃がした。それが、どういうことか分かるな、シリア?」
 苔色の強い眼差しが、じっとシリアを見つめていた。
 いつも面倒を見てくれていたヒューイが自分を人質にとっていたなどというのは想像もしていなかったから。これまでまったく思い至らなかったけれど。それで、ようやくあの時の状況をシリアも理解できた。
「お兄ちゃん……」
 ヒューイのいうことが本当ならば、兄は己の立場が悪くなるだろうことも承知の上でシリアを選んでくれたということになる。
 兄が自分を置いて一人で敵方に行ってしまったことは哀しかったけれど、それでも完全に見捨てられたわけではないのだということが僅かに救いだと思った。
「シリア。ユールがラーカディアストの将になった以上、おまえがこのままカスティナに居続けるのは危険だというのも分かるな?」
「……うん」
「一度はおまえを人質にとった俺がこんな事を言うのはおかしいし、信じられないかもしれんが、アリューシャが戻ってくるまでは俺がおまえを必ず守る。だから、それまでは辛抱して欲しい」
「え? ……アリューシャが……来るの?」
 偵察に出たきり戻らなかったアリューシャの名がとつぜんで出てきたのが意外で、シリアは思わず涙を止めて不思議そうに青年を見上げた。他の皆はアリューシャは敵に捕まり処刑されたのだろうと言っていた。それなのにヒューイには違う考えがあるようなのだ。
「ああ、戻ってくる」
 強い笑みを宿して、ヒューイは頷いてみせる。
「考えてもみろ、シリア。アリューシャはリュバサの外に居た帝国軍を偵察に行ったのだろうが。その軍を指揮していた総責任者は碧焔の騎士……ユールだ。あいつはたとえそれが顔見知りアリューシャではなかったとしても、子供を処刑するような真似はしない。絶対にな。だから、アリューシャは生きている。生きていれば、彼がおまえのところに来ないはずがないだろう?」
 今は敵となった旧友に対する絶対的な信頼。それを感じて、シリアは泣き笑いのように微笑んだ。兄を信じてくれていることも、アリューシャが生きていると言ってくれたことも、シリアには本当に嬉しかった。
「ありがと……ヒューイさん」
「いや。礼を言われるようなことではないさ」
 ヒューイは苦笑するように頬をゆがめ、しかし優しくシリアの髪をぽんぽんと叩いてやる。
 国王フィスカや宰相リファラスが、おそらくユーシスレイア牽制のためにこの少女を利用するつもりだというのは想像がついた。それをどこまで自分が守れるかは分からない。だからこそ早いうちにアリューシャに戻ってもらい、彼女を帝国へ送り出したいと思う。
 それは、ある意味ではカスティナへの裏切りになるのかもしれないが、自分自身は寝返るつもりはない。ただ、彼女を守るにはそれ以外に選択する道はない。ヒューイはそう思っていた。


「……あの娘はどうしておる?」
 ティートの町を見下ろすように建てられた城の上で、国王フィスカは窓の外を眺めたまま幼馴染でもある宰相にそう訊いた。何を見るでもなく窓外に向けられたその眼差しは、複雑な眼光を宿している。
 このあたりを統治する貴族ダインに献上されたこの城が、新たなフィスカの拠点としてようやく機能し落ち着きをみせ始めていた。
「シリアですか? 彼女ならば、現在はヒューイの監視下におります。……とはいえ、ヒューイはアルシェ殿の腹心だった男ですからね。あまり監視とは申せませんが」
 リファラスが静かに事実を告げると、フィスカは深い息を吐きだした。
「アルシェの娘と思うと辛くあたることは出来ないが……あの男の妹と思うと忌々しい。あの者には……ユーシスレイアには目をかけやっていたというのに!」
 苛立たしげに吐き捨てると強く壁を蹴飛ばして、フィスカは睨むように視線を宰相へと向けた。負けん気の強い眼光がほとばしるように周囲の空気を尖らせている。二度に渡る敗走がフィスカの気性をいつも以上に荒立てているように思えて、リファラスは目を細めるように国王を見やった。
「陛下。今シリアに何か手を出せば、ユールはさらに容赦なく我が国を攻め立てるでしょう。しかし彼女を手の内に置いておけば、彼を牽制する道具になります。短気は起こしませんよう」
 多くの者から賢王ともいわれるこの王の気性が、実はかなり激しいものだと知っているので、リファラスはどこか疲労したように釘を刺す。
 リュバサの攻防戦において帝国軍に敗れて離散していた兵たちも徐々に集まり始め、また今後の対策においてもやることが多い宰相には休む暇もなく、今は少しでも、こちらの不利になるようなことはしたくなかった。
 迷いもなくカスティナを攻めたユーシスレイアも、シリアを見つけたときだけは隙が出来たのだ。今後もそれを巧く利用する手はあるはずだった。
「わかっておる。しばらくはあの娘も自由にさせておくさ。……ところでリファラス。例の"奴ら"は動いているのだろうな?」
 腹心の諫言にふんと不愉快そうに鼻を鳴らして、フィスカは詰問するように宰相を見やる。
「ええ。彼らにとって"アレ"はとても大切で重要な存在らしいですからね。切り札に使えば帝国を内部崩壊させることも出来ましょう。最後に勝つのは太古の戦と同様、カスティナ王国です」
 ラーカディアスト帝国に対抗するための計画は既に動き出している。リュバサを追われたことは予定外ではあったけれど焦ることはない。そうリファラスは笑った。
 ユーシスレイアが寝返ったことを受けて西大陸連盟軍には激震が走り、連盟に属する諸国は一度は逃げ腰になった。それでもこの切り札の存在を告げると落ち着きを取り戻し、当初の約定どおりにライラック地方に集まることを承知したのだ。
「我々にとっては素晴らしくご利益のある『御守り』のようですね。"アレ"は」
「そうか」
 宰相の言葉にフィスカはやや皮肉げな笑みを浮かべると、再び窓の外に目を向けた。
「連盟なんぞよりも"奴ら"の方が頼りになりそうだな。連盟の連中は自分の国が侵攻を受けた時は当然のようにカスティナに援護を頼んできていたくせに、こちらが危ないとなると尻込みする。勝手なものよ」
「仕方ありませんよ、陛下。誰しも己が一番可愛いのですから。……特に大望なき、権力者たちは」
 意味深げに微笑を浮かべて、リファラスは王の背中に言葉をかける。フィスカは口端をつりあげ、ゆっくりと宰相を振り返った。
「ふん。諸国の大望ある権力者を謀略で消して、そんな惰弱者しか残さなかったのは誰だったか?」
「……十年前のあのとき、きっちりとラーカディアストの皇家を潰しておくべきでしたね。あの男の後継がここまで脅威になるとは思いませんでした。今さら悔やんでも遅いですが、線の細い子供と思って見逃した自分は詰めが甘かったと思っております」
 にやりと、底知れぬ鋭い笑みを浮かべて、リファラスは王の視線を受け止める。
「ふん。過去のことなど言っても仕方あるまい。だが余は……余を二度も敗走に追い込んだラーカディアストは絶対に許さぬ。それに組したユーシスレイアもな」
 ここには居ないユーシスレイアの姿を思い浮かべて、フィスカは憎々しげにそう吐き捨てる。そのフィスカの濃茶色の双眸は、極低温の炎が燃えているように見えた。


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2007.07.16 up