月に沈む闇
第三章 『微睡む月の影』
  


第五話

 魔族が住むといわれる北の大地リンシア。一年を通して常に氷におおわれたその土地は、かつては常春の都だったとも云われているが真実は遥か歴史の闇の中だ。
 太古の戦で魔族が人間に敗れた時から溶けることのない万年氷が魔界リンシア全体を被い、魔族たちを封じ込めているのだということが、現在の人々が知るリンシアの状況である。
 カスティナでもラーカディアストでも。どこの海からでも航路を北へとって数ヶ月も船を進めれば、地図などなくとも辿り着けるという広大な大陸。けれども決して外からは上陸出来ず、『境界』と呼ばれる一定の場所を通してしか往来することが出来ないのがリンシアという不思議な大地だった。
 そしてその両界を繋ぐ『境界』の多くは、ラーカディアスト帝国に存在していた。
 太古の……人・魔の間で戦いが起こる以前に最も魔族との交流が盛んだった民族。それがラーカディアストに住む者たちだったからだ。その為ラーカディアストの文化には魔族に通ずる物事も多い。
 他の国々では決して使われることのない、『真名文字』と呼ばれる独自の文字を使用しているのもそのひとつだ。真名文字はその文字自体にひとつひとつ意味があると云われ、ラーカディアストでは主要なものにはすべてこの真名文字があてられている。
 例えば『彩宮』や『蒼昊の宮』という皇宮内の建物の名称であったり、炎彩五騎士の称号や『氷鏡』などの呼称もそうだ。もともと『真名文字』は『魔名文字』とも言われ、魔族たちの名前に使われている文字が古のラーカディアストの人々によってアレンジされて独自の文化を築いたものだ。
 今では文字の由来を知るのは皇族と一握りの限られた者だけになってしまっているが、それほど魔族とラーカディアスト帝国との関係は太古より深かったのである。それ故に、魔族を"悪"と考えるカスティナ王国を含む西大陸の国々からは、ラーカディアストは邪悪な国家と目されていた。
 もちろん人の手によって魔界が封印されて以来ラーカディアストにある『境界』も他の地と同様に凍て付き、何者をも通さぬ極寒の冷気と氷とにおおわれて使用出来なくなっており、魔族との交流は無いに等しかったのではあるが ―― 。
 しかし今年に入ってラーカディアストの皇帝エルレア=シーイ=フュションが封印の一部を解き、魔族の往来が自由に出来るようになった。
 とはいえ、すべての封印が解かれたわけではなく、皇帝や五騎士が魔族の行動を把握できるようにというカレンの進言によって少しずつ境界の解放を進めており、今まで解かれた境界にイルマナ地方のリジェルは含まれていないはずだった。
 そしてその ―― まだ封印が解かれていないはずのリジェルの境界に、多くの魔族が通った形跡が見付かったのである。その報告を家宰から受けて、ラクル自身が急いで調査に向かったという次第だった。
 ミレザが「深き川のリジェル」と呼んだその境界は、マセル公爵家の本邸がある地域からはやや離れ、避暑などの目的で建てられた別邸を囲むように広がる翠華苑すいかえんと呼ばれる私有林の中に在る。
 もちろん見ただけでそれが『境界』と判るわけではない。リジェルは一見すれば普通に林の中を流れる小さな川で、水の深さも膝ほどまでしかなく、子供たちが水遊びをするのにもってこいの場所だった。
 ただ、境界を往来する為の知識が在る者には別の物が見える。
 川底までが見透かせるような澄んだ水が流れる静かな小川の或る一点に、そこに在るはずのない物。凍て付いた樹木や花々 ―― すべてが氷におおわれた異なる空間が映り込む場所があった。
 その場所が『深き川』であり、境界への入口だった。
「凍結樹が……とんでもないな」
 境界を封じる為に植えられた『凍結樹』と呼ばれる大樹の変わり果てた姿に、ラクルは唇の片端を吊り上げるように苦笑した。
 本来ならば、一年を通して碧々とした葉を繁らせ雄大な自然を具現化したように萌ゆる美しい大樹であり、大地を巡り水面まで伸ばされた数多の根によって境界の"入口"を閉ざしているはずだった。
 けれども今ラクルの眼前に広がる大樹はすべての葉を落とし、半ば崩れるように川面へとその身を落としていた。正規に封印が解かれたのであれば、こんなふうになるはずはない。
「おまえはどう見る、トルステン?」
 川岸の湿った地面に片膝をつくように川底を覗きこんでいたラクルはふと顔を上げて、背後に控える昔馴染みの護衛武官を見やる。トルステンは武骨そうな頬をさらに引き締め、主である公爵の視線を困惑気味に受け止めた。
「はい。私では境界への入口を拝見すること叶いませんが、この大樹の様子を見る限りでは、無理やり入口をこじ開けられましたように推察致します。……それが出来る魔族などそうそう居るとも思えませんが」
「……ふむ。やはりそれ以外には見えんよな。俺の知らんうちに皇帝がここの封印を解いたってわけではなさそうだからな」
 ラクルは颯爽と立ち上がると、無造作に束ねた頭髪を掻いた。
「だが……そんな無茶をする魔族自体、そうは居ないはずなんだがな……」
 カスティナ等西側諸国の人間が思うほど、魔族は好戦的な種族ではない。もちろん中にはそういう無頼な者たちも居るが、それは人間とて同じこと。生粋の冥貴人をはじめ力が強いとされる魔族たちはその強大な力ゆえに、逆に穏やかな性格の者が多いというのがラーカディアストの皇族が知る魔族の性質だった。
 リジェルの封印を無理に抜けることが出来る程の者ならば、力が強い魔族に相違ないのだが ――。
「わからんなぁ……」
 深い溜息をついて、ラクルは天を仰ぐ。やさしい木々の緑におおわれた天上からは柔らかな木漏れ日が差し込んでいたが、ラクルの内心は正反対に暗雲を立ちこめ暗くなった。
 このリジェルの境界の封印は完全に解けてはいない。半ば溶けるようにその身を崩している凍結樹がまだ効力を失ってはいないということは、その根元を見れば判った。
 ここを使った魔族たちは無理やりこの封印を成す結界の中を通り抜けたに違いなく、おそらく無傷ではいないだろう。代償にかなりの深手を負っているはずだ。
 既に封印が解かれている他の境界ではなく、そうまでしてこのリジェルを通ったということに何か深い意味があるような気がして、ラクルは暗然とした気分になる。
「封印を解かれた地ではなくここを使ったのは、我々人間に悟られるのを避けるためではございませんでしょうか? 五騎士の皆様……特に若や緋炎様の監視の目を掻い潜るのは難しゅうございましょう」
 既に封印が解かれた場所は五騎士や皇帝の目が行き届いているのだ。隠密に行動したければ無理をすることもあるだろう。トルステンは神妙そうな表情で自分の考えを主人に述べる。
「……まあ、そう考えるのが妥当だろうな。何故我らに悟られたくないのか、その目的は分からんが」
 ゆっくりとラクルは頷いた。実際、リジェルがこのような状態になっていることをマセル家の家宰が早々に気付いたのは偶然だった。
 末息子のルークが突然『翠華苑』に行きたいと言い出したために、その準備で家宰がこの私有林にやってきたのだ。それがなければ、定期の見回りが入るひと月後まで、自分たちはリジェルの異変に気が付かなかったかもしれない。
「こうなっては、詳しく調査をするほかあるまい。ルークには可哀相だが、翠華苑ココでの避暑は諦めてもらうしかないな。……また、拗ねるだろうが」
 幼い息子の拗ねた顔を思い浮かべながら、ラクルは苦笑する。
 ルークは、彼が婿養子として婚姻を結んだマセル家の一人娘が亡くなったあとに迎えた二度目の妻との間に出来た子供であり、当然『マセル公爵家』の血を引いてはいない。その為、兄ミレザのように『霊鳥』を得ることが出来ないのだと知って、先日おおいに拗ねたばかりだった。
 皇家の血筋なのだから引け目を感じる必要はないのだが、異母兄であるミレザを慕う六歳の末息子は、なんでも兄と同じように真似をしたがる傾向があった。
「ふむ。ミレザがルークに隼を贈ると言ってくれていたが……早めに来てくれると助かるな。呼ぶか」
 もちろん炎彩五騎士という立場に在る長男が多忙なことは承知しているが、意外と自由がきくのだということも知っていた。大好きなミレザが来れば、翠華苑への避暑が駄目になったこともルークはさして落胆せずに済むだろう。ラクルはそんな親馬鹿なことを考える。
「……若は聡い御方でございますから、もしかするとリジェルの異変に気付かれているやもしれません。そうであれば、ルーク様への約束履行を兼ねてこちらに向かわれていることでございましょう」
 トルステンは瞳に強い笑みを込めてそう断言する。幼い頃から利発であった主家の嫡子ミレザに対するトルステンの信奉は、かなり篤いようだった。
「はは。確かにそれは有り得るな。まあ……あれの察しの良さは尋常ではないからな」
 それもマセル家の血の為せる技なのかもしれない。そう思いながら、ラクルは苦笑した。
「とりあえず一度邸宅やしきに戻り、調査体制を整えよう」
 五十代の半ばを過ぎてなお若々しい、引き締まったその肢体にまとう大きな外套を翻すように、ラクルは踵を返して翠華苑を後にする。
 避暑が駄目になったこと伝える使者を末の息子に遣わして、自分はここに腰を据えて調査にかからなければならなかった。あわよくば、再び魔族がリジェルを通る現場を押さえることもできるだろう。
 ラクルをはじめとするラーカディアストの人間は、魔族に対して西側諸国のように悪い感情は持ってはいない。けれども、現在のこの異常性はそういう好悪の感情を抜きにして、慎重にかからなければならない問題だと思われた。

*****

「リジェルを使用していたのは、我々が有翼人と呼んでいる魔族たちでした。その数はおよそ三十。父が現場を押さえようとしましたが、半数は境界をすり抜け、残りは凍結樹の結界力の前に霧散したそうです」
 言いながら、ミレザはゆるりと目を細める。半数が霧散したと言った時、皇帝の背後に佇むカレンの口許が微妙に歪むのが見えた。無謀なことをして命を落とす眷属を悼んだのかもしれない。
「翼人か……。冥貴人よりは格段に力は劣るが、そこそこに強い魔族だな」
 緋炎の強い琥珀の双眸が静かに光を帯びる。帝国軍にたとえて言うなら冥貴人は炎彩五騎士であり、翼人はその五騎士の腹心たちに仕える陪臣と言ったところだろうか。
 そんな彼等が何を目的にして集団で無謀な行動をしているのか。魔族の中に出来つつある新たな秩序の存在に気付いて探っていた緋炎たちにとっては、確かにそれは見過ごせない事実だった。
「こちらの"友好的な"制止も話も届かずに、彼らはリジェルの深き川に飛び込んで行ったそうだよ。何か重大な使命でも帯びていたんだろうね」
 ルーヴェスタの黒豹のような強い眼差しを捉えて、ミレザはくすりと笑った。
「その翼人たちの翼の色は?」
 ふと、皇帝が短い問いを発した。その凛とした声音は鋭い刃を連想させる。ミレザは姿勢を正すように、再び皇帝へと視線を向けた。
「淡く青みがかった白だったと、父は申しておりました」
白群色びゃくぐんか。……おまえならば、その者たちの素性を知っているな?」
 僅かに背後を振り返るように、エルレアは視線を腹心の魔族に向ける。そのグレイの双眸が放つ妥協を許さぬ眼光に、カレンは普段よりも幾分かたい表情で微笑んだ。
「ええ。存じております。白群の翼を持つ者は……魔族を統べる王の配下に属する陪臣たちです」
 周囲の空気が一斉にすべての音を呑み込んだように、深い静寂が訪れた。部屋に居た者それぞれが、自分なりにその言葉を吟味しているようだった。
「 ―― 大物が目覚めたのだろうとは思っていたけれど、まさか王とはねえ」
 ミレザはひょいと肩をすくめて見せた。翡翠のように煌く深い翠の瞳が、どこか楽しそうに笑んでいる。
 魔族を『血に飢えた悪鬼』とでも勘違いしているカスティナの人間が今の言葉を聞いていたなら、恐怖に卒倒したのではないかと思うと可笑しかった。
 しかしミレザにとって大した驚愕はない。ただ、今までこちらで把握し掴んでいた魔族たちの行動網が彼らの王の出現で掌握しづらくなるのはやっかいだと思った。
 彼等にとっては自分たち魔族の王の方が優先されるはずであり、これまでのようにラーカディアストがその行動を完全に抑制することは難しくなるだろう。
「ふん……少しずつとはいえ封印を解いているのだからな。いつか目覚めるだろうと思ってはいたが……意外に早かったな」
 橙炎と同様に今後のことを考えて、ルーヴェスタも僅かに眉を上げるように苦笑した。無論、二人とも魔族を好き勝手にさせるつもりはなかったが ――。
「いえ。王はまだ目覚めてはいないはずですよ。目覚めたのであれば、私にもわかりますから」
 二人の騎士の淡白な反応に、青緑の瞳をゆるやかに笑ませてカレンは小さく首を横に振った。王となる程に強い者が目覚めれば、その魔力の波動は自分がどこに居ようとも伝わってくるはずだった。
「それなら、その翼人たちは、王を目覚めさせようとしているのかもしれないな」
 ふっと、切れ上がるような笑みを口許に佩いて、エルレアはカレンを見やる。
「ええ。おそらくは……」
「もし王が目覚めたら、ラーカディアストと同盟を結ぶ意志はあると思うか?」
「判りかねます。ラーカディアストとリンシアは太古よりの友好国ですので敵対はしないでしょうが、セイ……王は冥貴人にしては激しい気性の持ち主でもありますので、同盟自体はその時の気分次第かと。もちろん陛下がお望みならば、私も尽力いたしますが」
 静かに微笑んだまま、美しい魔族の青年は柔らかに言葉を紡ぐ。その途中、カレンが王の名を言いかけて止めたことは、エルレアも他の二人もすぐに気が付いていた。
 先の大戦以来、人間に対して無闇に己の名を明かすことを魔族たちは禁忌としている。そのことは、この場にいる誰もが知っていた。カレンの魔族としての本当の名……その本質を表す『火煉』という真名の文字を知っているのはエルレアだけであり、たとえ五騎士でもそれを知らされることはない。
 しかし普段から真名文字を使う機会の多い五騎士には、言葉の韻から文字を推察しようと思えば出来ないことはないだろう。だからこそ王の名を告げることを用心したのだと言われれば、納得せざるを得ない。
 だが、それだけにしてはカレンの口調は微妙に違和感があった。
「カレンは、魔族の王とは親しそうだね」
 ミレザはにこりと笑って皇帝の腹心を見た。僅かに目尻の下がった優しげな表情に浮かぶ、一見すると邪気のない笑顔が、すべてを見透かしているようでどこか空恐ろしい。
「……面識はありますよ。同じ冥貴人ですから」
 すべての真実を覆い隠すような美しい微笑を口唇に浮かべて、ゆうるりとカレンは目を細めた。それ以上の応えを返す気はないと、その表情が静かに物語っている。
「 ―― 橙炎とカレンのやりとりを見ていると、狐と狸の化かし合いに見えてきますね」
 ふと、扉の開く音と同時に、その場にはいなかった人間の声がゆるりと広間の中へと流れ込んできた。白炎を追って外に出ていた紫炎が、ようやく彩宮に戻ってきたようだった。
 紫炎はゆったりと部屋の中を見回すと、皇帝に恭しく一礼してから己の席へと歩みを進める。
「白炎の様子は?」
「……頭を冷やすと言っていましたから、大丈夫でしょう。しばらく時間はかかるかもしれませんけれど」
 己の隣席に位置するルーヴェスタの強い眼差しに、紫炎は苦笑まじりにそう応えた。自分にできることはもう何もないし、する必要も感じない。あとはただ、白炎自身の問題だった。
「ところで、今この部屋で為されていた会話ですが……」
 ラディカは紫色の瞳に強い光を立ち上げて、周囲に在る面々を見やる。
「私とカレンが狐狸の化かし合いってことかい?」
 可笑しげに、ミレザはそう返す。そんな橙炎を軽く睨んでから、紫炎ラディカは強い眼光をたたえた皇帝へとその視線を向けた。
「魔族の王についての話をされていたように見受けられましたが」
「ああ、していた」
 簡潔な皇帝の応えに、ラディカはゆるりと笑う。こういう一切の無駄を省いたようなエルレアの物言いが、紫炎は好きだった。
「それに関わりがあるのかどうかはまだ明確には判断できませんが、『魔物』に関する奇妙な噂があり、ここ数日間、僕なりにそれを調査しておりました」
 今朝がた部下から提出され、白炎の話を聞くまでのあいだ目を通していたその書類を、紫炎はすっと円卓の上から取り上げる。
「必要ならば今日の五騎士会議で議題に載せようと思っていたのですが、ちょうど良かった」
 アメシストの瞳に強い意志を浮かべ、紫炎は静かにそれをエルレアへと差し出した。
「魔族ではなく、魔物のほうか……」
 それを受け取りながら、エルレアのグレイの瞳が凛と刃を放つ。
 それまでどこか可笑しそうな表情だった橙炎もにわかに表情を改め、緋炎の琥珀の双眸は獲物を狙う黒豹のような強い光を放って紫炎へと向けられた。
「ええ。北の街ギョクトでの調査です」
 魔族と魔物。人々には混同されがちなそのふたつ。似て異なる物。それが同時期に不穏な気配を見せているというのだ。単なる偶然とは思えない。
 やはり ―― 何か厄介なことが起きつつあるのだと、そう思わざるを得なかった。


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2007.02.16 up