月に沈む闇
第一章 『炎彩五騎士』
  



第三話

 他の五騎士と別れて彩宮さいぐうを出て来たルーヴェスタは、少し先の小道に佇むユーシスレイアの姿を見付けて足を止めた。リュバサ攻略の準備にかかりたいと言って先に部屋を退出したはずの彼は、何やらぼんやりと遠くを眺めているようだった。
 その様子がどこか無防備で、いったい何を見ているのかと、ルーヴェスタは彼の視線をたどるように同じ方へと顔を向ける。
 五騎士が集うこの彩宮からほど近い皇宮庭園の一角では、白く可憐な花弁が青い空に向けてこぼれるように咲き広がっていた。ユーシスレイアが見ているのはどうやらその花たちであるようだ。
 似合わないものを見て感傷にひたっていると、ルーヴェスタは軽く笑った。
「花がどうかしたか、ユール?」
 周囲に誰も居ないからか、緋炎の騎士は碧焔の"名"を呼んだ。仮に誰かに聞かれたとしても愛称で彼の本名がユーシスレイアと知れる心配もないのだが、普段はあまり呼ばないようにしていた。
 けれども今はなんとなく名を呼びたくなるような、そんな雰囲気だった。
「……おまえか」
 ふうっと夢から醒めたように緋炎を見やり、ユーシスレイアは僅かに苦笑を浮かべた。
「別に、どうというわけじゃない。ただ、あれと同じ花がおれの家にも咲いていたなと思っただけだ。たしか、カモミールだったか?」
 以前妹のシリアが楽しそうに教えてくれた花の名を思い出しながら、ユーシスレイアは庭園に咲き広がる白い絨毯をもう一度見やる。緋炎の騎士は納得したように頷くと、相手と同じように庭園の花へと視線を向けた。
「カスティナではそう呼ぶのか。こちらでは、あの花は『カミツレ』という。陛下がお好きでな。昔からあそこはカミツレ畑だ。……今まで気付かなかったのか?」
「ああ。まったく気付かなかった。たぶん今までおれの……いや。"碧焔"の目には、花など映し出している余裕がなかったんだろう」
 おどけるように肩をすくめて、ユーシスレイアは白金の瞳をゆるやかに細めた。
「リュバサの……故国の攻略を命じられて余裕ができるというのも変なものだが」
「ふん。分かる気はするがな。完全に過去と決別する覚悟。我らの目的に協力する覚悟。……心が定まったゆえの余裕というところであろうか」
 ルーヴェスタは力強くあざやかな笑みを口元に佩いた。
「そう、かもしれない」
 緋炎の言葉には、不思議な力があるとユーシスレイアは思った。こうして自分がこの場所に……ラーカディアストに身を置くようになったのも、元はといえばこのルーヴェスタのせいだ。
 四ヶ月前。自分はカスティナでこの男と戦い、そして敗れたのだ。深く身体に剣を突き立てられ、一度は死の接吻を受けて暗闇に落ちた己の意識が、どういうわけだか再び覚醒した。
 この男に生命を救われたのだと。そう知った時は屈辱感でいっぱいだった。
 しかし ―― 今も自分はここに居る。
 心身ともに瀕死状態だったユーシスレイアに治療を施し、ラーカディアストに仕えるよう言ったのは、もちろんこのルーヴェスタだった。
 普通に考えれば、その時のユーシスレイアの立場は"捕虜"だ。彼との戦いに敗れて帝国本土に連れて来られたのだから。
 けれども、その扱いは初めから賓客に対するものだった。それは、ルーヴェスタがユーシスレイアを捕虜としてではなく賓客として帝国に連れ帰ったからだ。
 たとえ相手が王族だったとしても戦いで深手を負って意識不明に陥っている捕虜などは本国に連れて帰らない。その場で殺す。それが、いつもの緋炎のやり方だった。
 それを強いて連れ帰ると言い、しかも手当てをしてやれと言う。それを聞いて、緋炎の部下たちは彼を賓客として扱い、親身に治療に勤めたのである。
「おまえには、あの聖人ぶったフィスカを戴くカスティナ王国なんぞより、エルレア陛下率いるこのラーカディアストの軍に身を置くことこそ相応しいと、私は思うがな」
 親身な治療の甲斐あって、一週間ほど経ってようやく目覚めたユーシスレイアに、ルーヴェスタは今と同じようなあざやかな笑みを浮かべてそう言ったのだ。
 もちろん最初は一笑に付した。そんな言葉を、自分が受け入れるわけもなかった。父を。母を、妹を。自分から家族をすべて奪ったのはこの国なのだから ―― 。
 しかし、緋炎の騎士と話をするたびに心は揺れた。
 緋炎は決してユーシスレイアに寝返りを強要するような言葉は言わなかった。時おり帝国のこと。皇帝のこと。世界のこと。それらを淡々と話し、そしてただ、考えるようにと。拒否したからといってそれまでの親身な治療が変わるでもなかった。
「自分で生まれる場所は選べぬが、在るべき場所なら選べるものだ」
 緋炎のその言葉だけがユーシスレイアの耳の奥に残り、ことあるごとによみがえっては心を揺らした。
 そうして二ヶ月が過ぎ、ようやく元のように剣を扱えるまでに回復したユーシスレイアに緋炎は最後の誘いをかけた。そして ―― 
「もし、おまえがどうしてもラーカディアストに仕える気がないというのならば、カスティナに帰るがよい。もうすこし回復して船旅に身体が耐えられるようになれば、緋炎の騎士の名にかけて送りとどけてやろう」
 思いもかけないその言葉に、ユーシスレイアは言葉を失った。何を馬鹿なことを言っているのだろうと思った。敵将の怪我を癒し、そして無事に帰らせようというのか。そんな甘い話があるはずもない。
 しかし緋炎は本気だった。
「もちろん我が国に欲しいとは思う。だが、私は手強い敵というのも好きでな。おまえと再び戦場でまみえてみたいという気持ちも、実は強くあるのだよ」
 そう言って、にやりと緋炎は笑ったのである。
 ラーカディアストの人間になることを拒否してきた心は、いつのまにか激しい迷いに変わっていた。緋炎の騎士への憎しみが、この二ヶ月の間に自分の中で大きく変わっていたことに気が付いて動揺した。
 この男に深い敬愛を抱かせる皇帝とは、いったいどんな人間なのだろうか。会って話をしてみたいと。強くこの国に惹かれている自分がいたのは確かだった。
 緋炎の言葉には力がある。ユーシスレイアはそう思う。いつのまにか自分は緋炎に……ルーヴェスタの言葉に共感を覚えるようになっていたのだから ―― 。

「今度は何を考えている?」
 ふと、ルーヴェスタの低い声が聞こえてユーシスレイアは我に返った。あの時と変わらない、強い琥珀の双眸がこちらを見ていた。
「……いや、なんでもない」
 軽く頭を振って苦笑する。うしろでひとつに結んだ銀色の髪が、その動きにあわせてゆるゆると流れた。
 ルーヴェスタは特に追求するつもりもなかったのか、「そうか」と軽く納得すると、ついっと、白く咲きこぼれるカミツレの花へと視線を戻した。その琥珀の瞳が、どこか楽しそうな眼光を宿す。
「私も最近知ったのだが、あの花には、逆境に負けぬ強さ。逆境の中の活力という花言葉があるそうだ」
「それで陛下は……あの花がお好きなのか」
「さあ? どうであろうな。訊いたことはない。単にあの花で淹れる茶が好きなだけかもしれぬ。だが……そうだな。私はおまえが、"この国の人間になるかどうかは皇帝に会ってから決める"と言った時、これでおまえはラーカディアストの人間になると確信した」
「……どういうことだ?」
「あの御方の心は誰よりも強い。そしてその強さゆえにまた脆くもある。だからこそ、私や橙炎……五騎士は陛下に惹かれる。共に進みたいと思う。おまえも会えばきっとそうなるだろうと思ったのだよ。まあ、陛下の脆い部分を見抜くことが出来る者などそうそう居るものではないがな」
 くくっと軽く笑うと、緋炎の騎士はユーシスレイアを見やった。
 もし花言葉を含めてあの花が好きなのであれば、それは皇帝が己の脆さを知っているからだろうとルーヴェスタは言う。"脆い"などという形容は、世界統一という苛烈な目的を打ちたてて突き進むラーカディアストの皇帝には、あまりに似合わない言葉ではあるけれど。
「自分の脆い部分を見つめることは、強さでもあるな。おれは……まだ出来ない」
 ユーシスレイアは自嘲するように頬を歪めた。
 カスティナを裏切り、ラーカディアストの皇帝に仕えることはもう心に定めた。その決意は揺るがない。けれども自分を守るように死んだ母の最期だけは、未だ心の整理がついていなかった。
 だから弓の名手であるという白炎の騎士を見るたびに己の心を鎧わなければならなくなる。母の頭部を貫いた、純白の矢を思い出して ―― 。
「ふん。人間だれしも直面できない心の脆い部分があるものだ。出来ないと自覚しているのならば、それだけでも今は良い。無意識に避けるのでなく自覚さえしていれば、いつか向き合える日も来る」
 言いながら、ルーヴェスタは緋色の外套を大きく翻すように背を向けた。これまではほとんど他人に関心を持たなかったというのに、どうしてだか碧焔に対しては深く関わろうとしている自分自身が可笑しくて、緋炎は思わず苦笑した。そうしてそのまま、自分の屋敷へ向かう道を歩き出す。
「……不思議なものだ」
 去っていく緋炎の後姿を眺めながらユーシスレイアもまた、苦笑するように独りごちた。
 カスティナにいる時でさえ、誰かに自分の弱みを見せたことなどなかった。けれども何故か、ルーヴェスタには自分の弱いところも躊躇なくさらけ出してしまう。
 戦いに敗れた無様な自分を見ている彼にいまさら格好をつける必要がないからなのか。それとも他に理由があるのか ―― 。自分自身でもうまく判断がつかなかった。
「海が、見たいな」
 もう一度カミツレの花を見やり、ぽつりと呟く。そうしてくるりと身を翻すと、緋炎と同じ道を、ユーシスレイアはゆったりと歩きだした。


 ラーカディアストの帝都ザリアの街を疾駆するように、大きな鹿毛の馬が通りを抜けていった。
 馬上では月の光を思わせる銀色の髪と、深く鮮やかな紺碧の外套が風になびいていた。その外套が炎彩五騎士にのみ許される炎色の物であることは、一目で分かる。
 外套を左肩で留めるブローチも、皇帝と五騎士のみが身に付けることが出来る、ラーカディアスト帝国の紋章『月と稲妻ユエ・ダーレイ』をイメージしたものだ。
 まだ『碧焔の騎士』として顔は知られていなくとも、そのいでたちだけで、すぐにそれが新しく碧焔となった将なのだと誰にでも分かる。
 普通の国であれば……カスティナでもそうであったが、皇帝の次位に位置するほどの身分の高い者ならば暗殺等を警戒し、はっきり正体が分かるような装束をつけて一人出掛けることなどありえなかった。
 だがこのラーカディアストでは違う。襲われても回避するだけの自信と力量がない人間は、皇帝が任官しない。文官であれば仕方がないが、武をもって身を立てる武官である以上、己の身も守れないような輩を高位に就けるつもりはないということらしい。
「暗殺を恐れるような輩は私の周りには要らない。暗殺されるような輩は、もっと要らない」
 それが、皇帝の言葉だ。それはエルレア自身にも当てはまるのだと、苛烈なグレイの瞳で言った皇帝に、本当に炎のような人だとユーシスレイアは思ったものだった。
「あ、新しい五騎士様だ。碧焔様だ」
 街の者は通り過ぎる碧衣の青年を見て、口々にそう言った。
 これで再び炎彩五騎士は五人揃った。ラーカディアストは更に強大になるだろう。そして世界を統べる日も遠いことではない。そんな予感が人々の夢を駆り立てる。
 ユーシスレイアはそんな人々の声を聞かないように、馬をより速く走らせた。
 かつて、カスティナでも人々の期待と賛辞を山ほど受けた。その自分は今どこにいる? 最大の敵だったラーカディアスト帝国だ。
 後悔ではない。嫌悪でもない。ただ、その事実がひどくユーシスレイアを疲れさせた。
「碧焔さまっ!?」
 街を抜け、海の見える高台へと続く細い坂を駆けていると、不意に脇から驚いたような声が上がった。聞き覚えのあるその声に、彼は馬を止めて振り返った。
「やはり、おまえか」
 道の脇に、毎朝部屋を掃除に来る元気な少女の姿を見出して、軽く笑ってみせる。買出しにでも行っていたのだろうか。両手に大きな紙袋を抱えていた。
「どうしたんです? もう会議は終わったんですか?」
「まあな。……海を見に行こうとしていたところだ。あの高台から見る海は、好きでな」
 白金の瞳を僅かに細め、ユーシスレイアはこれから自分が向かう先を眺めるように顔を上げた。
「あそこ、とても綺麗ですものね」
 セリカはにっこりと笑った。
「碧焔さまって、もしかして元々はこの国の方ではないんですか?」
「なんで、そう思う?」
「あそこから見る海が好きだという人は、ほとんど他に故国を持っている人だもの。誰にとっても懐かしく思える場所なんだって、おじいちゃんが言ってたわ。私のおじいちゃん、移民者だったんですよ。ラーカディアストって移民者がやたらと多いけど、それって移民者をないがしろにしないからですよね、きっと。なにしろ前の碧炎様は見るからに異国の方だったし、緋炎様はナファスのご出身だって、ご自分でおっしゃっていたもの」
 そう言って、セリカは楽しそうに碧焔の顔を見やった。
 確かに、皇帝の次位に位置する炎彩五騎士の出身国を見れば、ラーカディアスト内での移民者の扱いが分かる。
 炎彩五騎士の中で生粋の帝国人民は、実を言えば公爵家出身の橙炎の騎士、ミレザ=ロード=マセルただ一人だった。それ以外の者は、出身はラーカディアスト以外の国なのである。
 ユーシスレイアがこの帝国の地にやって来て、驚いたことは多かった。西側諸国で噂されているような、凄惨な状況など何一つありはしない。
 帝国出身以外の人間を虫けらと呼んで蔑み迫害し、簡単に殺傷するなどという馬鹿げた噂はいったいどこから出てきたのか? まして、民は皇帝の威を恐れ縮こまるように生活し、兵はその威を借りて傲慢な振る舞いをしているとは笑止千万だ。
 民は皆いきいきと過ごし、他のどこの国よりも豊かで闊達な暮らしをしている。それは、皇帝が魔界の封印をといた今も変わってはいない。
 確かに皇帝エルレアは魔界の封印を解き、多くの魔が再び世界に流れ出た。けれども決して、彼らは無差別な殺戮をしてはいなかった。それは民の言うように炎彩五騎士の力なのか。それとも皇帝エルレアと『カレン』の力なのか。おそらくすべての尽力の結果なのだろう。
 ラーカディアストは噂のような混沌の国家ではなく、力に頼った傾向は強いが優秀な国だというのが、ユーシスレイアが抱いた感想だったのである。
「おまえは、ラーカディアストが好きか?」
「もちろんです! 皇帝陛下は聡明な御方だし、炎彩五騎士の方々も強くてお優しいし、大好きです」
 とくに碧焔さまが、とは口に出しては言えなかったけれど、セリカは心の中でそう呟く。
「そうか」
 ユーシスレイアは薄く笑った。
 無邪気に笑うこの少女が、失われた妹のシリアに少し似ている。そう思った。顔はまったくといっていいほど違う。けれどもその無邪気さと明るい空色の瞳が妹を連想させるのだ。
 ふうっと懐かしげに、そしてどこか哀しげに、ユーシスレイアは目を細めて彼女を見やった。その碧焔の表情が、自分が名乗った時のものと同じだとセリカは思った。
「どうか、したんですか? なんだかとても哀しそうです」
 おそるおそる、訊いてみる。碧焔は口元に苦い笑みを刻んだ。
「別にたいしたことじゃない。ただ、おまえと同じ年頃の妹を思い出しただけだ。……四ヶ月前に死んでしまったんだけどな」
「その妹さん、セリカっていうんですか?」
「なぜ?」
「だって、私がセリカって名乗った時も、今みたいな表情をしていらっしゃったから」
 心配そうにセリカは碧焔の顔を見上げた。
 くっくっと、不意にユーシスレイアは笑い出した。まさか、自分がこの少女の前でそんなに感情を面に表しているとは思いもしなかった。
 守りきれなかった家族たち。カスティナを守るために戦い抜いて死んだであろう父。そんな彼らが、人が死後に行くという"天上"とやらで、自慢の息子が敵国ラーカディアストに寝返ったのを見て、どう思っていることか。
 そう考えて、ユーシスレイアは可笑しくなった。
「セリカ、か。それは母の名前だ。やはり四ヶ月前に死んだんだよ」
 ひとしきり笑ったあと、ユーシスレイアは淡々とそう言った。
「……ごめんなさい」
 なぜ碧焔が笑っていたのか。セリカには分からなかった。けれどもそれは、とても渇いた笑いだと思った。悲しいことを思い出させてしまったのだと、セリカは自分の問い掛けを後悔した。
 母と妹を四ヶ月前に亡くしたと聞けば、彼がどこの国の人間なのか見当がつく。四ヶ月前、彼自身もひどい怪我を負い、緋炎の騎士の館で治療を受けていたのだ。その頃にあった、緋炎が出るほどの戦といえばカスティナとの戦いだけだ。
「うん? 謝る必要はない。……それよりも、おれの出身地については、まだ秘密だ」
 セリカに自分がカスティナ出身だと気付かれたことを悟ったユーシスレイアは、軽く笑って少女のふわふわとした栗色の頭にぽんっと手を置く。
「はいっ」
 元気に答え、セリカは大きく頷いた。
「じゃあ、おれはもう行く。……気をつけて屋敷に帰れ、セリカ」
「!?」
 去り際に、ほんの少し柔らかな笑みを浮かべた碧焔に、セリカは真っ赤になった。大好きな碧焔の騎士が、初めて自分の名を呼んでくれた。その事実がとにかく嬉しかった。
「ありがとうございますっ。碧焔さまも、お気をつけて!!」
 小さくなっていく碧焔の騎士のうしろ姿にそう叫び、彼女は幸せそうに微笑んだ。
 


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2004.5.16 up