月に沈む闇
序章 『邂逅の焔』
  



第三話

 その頃ユーシスレイアたちは、リュバサに向かうための道を四人だけで駆けていた。
 城への襲撃を見たユーシスレイアが救援に向かおうと家を飛び出したとき、国王フィスカから直ちにリュバサに行くようにとの伝令を受けた。
 既に王は隠し通路から王都の外へ落ち延びてリュバサに向かっており、城下の民は、ようやく集結した騎兵が守りながらリュバサへの道を行くというのだ。
 何故か異形の者たちは城下の人間には目もくれず、ただ城のみへと牙を剥く。不思議ではあったが不幸中の幸いでもある。そのおかげで王都シェスタの民はほとんどが無事に脱することが出来そうだった。
 ユーシスレイアは、リュバサへの道を知る老将ジェラードに騎兵と避難民の統率をゆだね、自分は念の為に逃げ遅れた者の有無を確認するようにひととおり街を見てまわっていた。
 街中で魔物に遭遇したとしても一人で対応できるという自負と、一足遅れて街を脱したとしてもすぐに追いつく自信があったからこその行動だった。
 しかし ―― あろうことか、他の避難民たちと一緒に先に逃げるように言い置いたはずの母とシリア。そしてアリューシャまでもが自分の帰りを待っていたのである。
 一人であれば後からでも追いつけると思っていたユーシスレイアの思惑は、そこで大きく崩れた。
 けれども足の負傷を心配して待っていた家族を責めることは出来ない。瞬時に思考を切り替えて、自分の馬には母を。アリューシャにはシリアを頼み、ユーシスレイアは家族を守りながら先を急ぐしかなかった。
 その背後には、城を襲撃したような異形の者たちではなく、近付いていると報告のあった帝国の大軍が霞むように見え始めている。その中にひときわ目立つ『炎彩五騎士えんさいごきし』の大軍旗が三旗。緋色と白と橙と。夕焼けに染まる赤い空の中に美しく揺らめいて見えた。
「……見つかったか」
 不意に、迫って来る殺気を肌で感じ、ユーシスレイアは唇を噛んだ。あの中の誰かが、ここに居る自分たちに気が付いた。このままではおそらく追いつかれてしまうだろうと思った。
 逃げる者は容赦なく殺す。捕虜になった者は奴隷となる。それがラーカディアストの鉄則だといわれていた。かの国の者にとっては、帝国出身以外の人間は"虫けら"なのだという。それが真実かどうかは別として、他国からはそう信じられ、怖れられていた。
 死も、奴隷としての生も、どちらも許容できるわけがない。ユーシスレイアは気配を探るように感覚を研ぎ澄ませながら馬を走らせ、腰に佩いた長剣の柄を左手で押さえた。
「ユールっ!」
 不意に、ユーシスレイアの前に座っていたセリカが悲鳴のように息子の名を叫んだ。
 声と同時にセリカは息子を抱きかかえるように馬の上で身を捩じらせる。突然のことに馬は驚いて嘶きながら立ちあがり、バランスを崩したユーシスレイアとセリカは危うく落馬するところだった。
 何とか二人とも落馬は免れたものの、体勢を整えるように一度ユーシスレイアは馬から下りた。馬からずり落ちるように崩おれた母を助け起こし、安否を問うようにその顔を覗き込む。
「大丈夫か? 母さん。いきなりどう……!?」
 はっと、白金の瞳が信じられないというように大きく見開かれた。あまりのことに一瞬息を呑み、ユーシスレイアは血の気がひいたように青褪めた。
「か、母さんっっ!?」
 既に、母は絶命していた。純白の羽を持つ矢が……セリカの頭部を貫き、彼女の生命を一瞬にして奪っていた。それが、自分を庇ってのことなのだとすぐに分かった。
 普通ならば見えるはずもない。しかし ―― 息子を害するモノに対する母の本能なのだろうか。何か光のようなものが息子にむかって飛んでくる。セリカの目にはそれがはっきりと映っていたのだ。
「こんなこと……どうしてっ!」
 鮮血が流れる母の身体をかきいだき、ユーシスレイアは絶叫した。どんなことをしても守りたかった家族。その母に……あろうことか自分が守られてしまったという事実が心を打ちのめす。
「お母さまっ!!」
 転ぶようにアリューシャの馬から飛び降りて、シリアは泣きじゃくりながら母にすがりついた。目の前で起きている今の現実が信じられなかった。否、したくなかった。どうして母は目を開けないのか。血を流しているのか。理解などできるはずがない。
「……………」
 ユーシスレイアはそっと母の亡骸を地に横たえると、すがりつく妹を優しく自分の方へと抱き寄せた。
 彼の心は怒りと憎しみに転じた悲しみで沸騰し、『ユーシスレイア』という人格を形成している精神基盤は激しく揺れていた。けれども ―― 妹を無事に避難させる。ただその一事が、いま彼の精神の均衡を保ち、冷静さを支えていた。
「そんなところで何をしている?」
 不意に、無感情な声が辺りを震撼させた。
 真闇にも似た漆黒の髪と、身をつつむ緋色の外套マントが風を孕んで大きなうねりを見せる。獲物を狙う黒豹のような琥珀の瞳がじっと、馬上からユーシスレイアを見下ろしていた。
 優美な彩に冷酷さを秘める緋色の軍装と、男の持つ圧倒的な眼光に、目の前に現れた者がいったい何者なのか。ユーシスレイアは悟った。
 二年前にも同じような……全身が粟立つような感覚を持った存在と闘ったことがある。そのときの男は碧い軍装だったけれど。確かに同じような雰囲気をもっていた。
 脳裏をよぎったのは、ナファスの海上戦でまみえたラーカディアストの炎彩五騎士がひとり、碧炎へきえんの騎士。
 それならば ―― 緋の軍装を身にまとったこの男は、五騎士の主座として名をとどろかせる緋炎ひえんの騎士。ルーヴェスタ=カイセードに相違ない。
 酷薄に笑むその男の眼差しに、ユーシスレイアは逃げられないと悟った。悟ると同時にシリアを背後にかばい、みずからの長剣をすらりと抜き放つ。
 アリューシャも、隙をつくらぬように剣を構えた。
「 ―― 」
 ルーヴェスタの視線とユーシスレイアのそれとが見えない刃となって火花を散らす。一瞬、周囲の空気がピンと張り詰め、凍り付いたように感じられた。
「ほう、なかなかいい目をしているな。それに免じて楽に死なせてやろうか」
 ルーヴェスタは楽しげに唇を歪めると、身の丈ほどもある大きな剣を振り上げた。
 その攻撃を長剣で受け止めながら、ユーシスレイアは自分の不利を悟らずにはいられなかった。馬上と徒ではそれだけでも優劣は決している。その上、こちらは左足に負傷を抱えているのだから。
「うおーっ!」
 不意に、アリューシャが緋炎に斬りかかっていた。ルーヴェスタの注意がユーシスレイア一人に向けられている今、自分が攻撃すればみんな助かるかもしれない。そう思った。
 ユーシスレイアが止める暇もなかった。
「愚か者め」
 身の程知らずにも斬り掛ってくる少年に、緋炎の騎士は冷たい嘲笑を向けると、いとも簡単にその剣を受け止め大剣を横に薙ぐ。
 その強烈な剣勢に、アリューシャは深紅の虹を宙に描きながら、かなり離れた草むらまで飛ばされた。一度起き上がろうと片膝をつき、けれどもそのまま力なく倒れ伏す。
「アリューシャ!」
 声にならない悲鳴を上げ、シリアは少年に駆け寄ろうとした。その腕を、ユーシスレイアは強く引き寄せた。行けば彼女まで同じ目に遭ってしまう。それだけは避けたかった。
「シリア、おまえは逃げろ。逃げて国王陛下たちと合流しろ。……アリナス方面に向かえば会えるはずだ。おれも、必ずあとから行くから」
 ルーヴェスタを睨み付けたまま、ユーシスレイアは妹に小声で囁いた。あまり巧くはないがシリアは少しなら馬も扱える。自分が彼をひきつけている間に、なんとか妹だけでも逃がしてやりたかった。
「いや。わたしだけなんて……」
 シリアは兄の服をしっかりと掴み、動こうとはしない。このまま行ってしまえば、もう兄とは会えなくなるかもしれない。そんな気がして離れたくなかった。何より独りでは心細い。
「おまえがいては……邪魔なんだ。だから、先に行け!」
 ユーシスレイアは今まで見せたことのない厳しい表情で、妹を叱り付けた。母は救えなかった。なんとしても妹にだけは助かって欲しかった。
「…………」
 ここに自分が居ることは兄の邪魔になる。その言葉に、シリアは涙を溢れさせた。それは自分を逃がすための言葉なのだと思う。けれども、そういわれてしまえば無理を言って残っていることは出来なかった。
「……約束だよ、お兄ちゃん。絶対に……あとから来てね」
 するりと兄の小指に自分の指を絡めてそう言うと、涙をこぼしながら微かに笑む。必死に慣れない馬に飛び乗って、シリアは一目散に走り出した。
「ふん、逃げられると思っているのか?」
 ルーヴェスタは逃げ去る少女を特に追いかけようとはせず、ただ唇の端で薄く笑った。
「ここにいるよりは助かる可能性も少しは高いだろう。俺はそれに賭けただけだ」
 静かに、ユーシスレイアは自分を見やる琥珀の目を見返した。
「おまえの賭けは既に破れたようなものだ。あの炎が見えぬか? おまえの妹が行った方だ。あっちには魔物がいる。人ではなく……な。人であれば女子供は殺さぬやも知れぬが、魔物はどうであろうな? あの辺りの生あるものはすべて、血に飢えた魔物どもの餌食となっているやもしれぬ」
 くくっと笑い、ルーヴェスタは弄るようにユーシスレイアの顎に剣先をあてる。
 確かに、シリアが走り去った方向からは炎々と火の手が上がり、上空には黒い影のような異形のものが羽ばたくのが見えていた。
「……くっ」
 ユーシスレイアは血にまみれたシリアの姿を想像し、カッと白金の瞳を見開いた。実際にその光景を見たわけではない。けれども ―― 脳裏に浮かんだ妹のその姿に、今まで自分の精神基盤を支えていた何かが音をたてて崩れ去ったような気がした。
「き、さま……」
 燃え立つような白金の瞳が、じっと緋炎の騎士を睨み据える。誰かをこんなにも憎いと思ったことはなかった。軍を率いて戦っているときでも、憎しみで戦うわけではない。けれども今はこの男が……緋炎の騎士を殺したいほど憎いと思った。それは八つ当たりに近い感情だったかもしれないが ―― 。
 その、激しい憎しみを宿したユーシスレイアの眼光に、ルーヴェスタは思わず感嘆の吐息を漏らしていた。自分と互角に対峙している上に、この激しく強い意志を宿した眼光。それは、ひどく魅力的なものに感じられた。
 人に対してあまり執着を持たない自分がこうも惹かれること自体、この白金の瞳の青年が稀な存在という証なのだろうと、ルーヴェスタは可笑しく思う。
 思いながらも、決して攻撃の手を緩めはしなかったけれど ―― 。
「ふ……。楽しい相手に会えたな」
 にやりと、緋炎は黒豹のような琥珀の瞳に笑みを佩く。
「ふざけるなっ!」
 ユーシスレイアは憎しみに身を委ねながらも、思考は非情な程に冴えていた。
 襲って来る暫撃を巧みにかわし、反撃の機会を待つ。こちらから無為に仕掛けるより、その方が緋炎の騎士を倒す勝算は高いと判断した。
 それだけルーヴェスタの剣戟が鋭く激しいということでもあったが、ユーシスレイアも劣るものではない。どうにか僅かにでも隙を見つけ、勝負を決する。その為に、憎しみで判断を曇らせるわけにはいかなかった。
「 ―― っ!」
 だが瞬間、左足に激痛が走った。屋根の瓦礫によって痛めた箇所。それが……ひびが入っていた骨が、この剣戟の酷使に耐えられず砕けていた。
 その瞬間走った激痛は、今までユーシスレイアが相手に求めてやまなかったほんの僅かな、普通なら気付くはずも無いほど僅かな隙を彼自身に生じさせてしまっていた。
 常人ならばともかく、それにルーヴェスタが気付かないはずはなく、彼の大剣はユーシスレイアの身体を鞘として深く静かに収まった。
「……シ…リア」
 深い闇へと意識が落ちていく中、ユーシスレイアは妹の名を、声にならない声で呼んだ。どうか無事でいて欲しい。それだけが、彼の心で悲痛な叫びを発していた。
 ルーヴェスタは血に倒れ伏す青年の姿を目を細めるように見やる。そうしてどこか哀しげに、漆黒の髪を揺らすように軽く頭を振った。
「……死なすには惜しいな。あのような眼を持った男は滅多にいない。これならば……」
 じっとユーシスレイアの姿を見下ろし、そう呟く。
 ゆっくり三つ数えるほどのわずかな時間だけ迷うように瞳を閉じ、そうしてふと、ルーヴェスタは軽やかに馬からおりた。
 己がたったいま倒したばかりの相手の鼓動を確かめるようにひざまずき、あざやかな笑みを口端に刻む。
「 ―― 決めた」
 ばさりと、風を叩くように緋色の外套をうしろにはねのけ、瀕死のユーシスレイアを抱き上げる。そうしてゆっくりと、ルーヴェスタは本営へと戻っていった。


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2004.2.15 up