Misty Night 番外編 ショートショート2 




『紅葉の谷』


 朝ごはんの後片付けも屋敷のすみずみまでの掃除も、いつものように手際よく終えたダストは、ふうっとひとつ大きな溜息をついた。
 モップを片手にぼんやりと窓の外を見やり、もういちど溜息が出る。外は柔らかな陽光が降りそそぎ、晴れやかな色に染まって見えた。
「……いい天気だよなぁ」
 どうして自分は、こんなふうに朝から掃除をしているのだろう。思わず手にしたモップを睨みつけ、三度目の溜息をつく。
 外に行きたいわけではなかった。今は少年の姿をしているけれど、本性は夜が活動時間のコウモリだ。太陽の光もあまり得意ではない。ただ、自分と同じようにヴァンパイアの使い魔となった仲間たちは、今頃はぐっすりと眠っている時間だろうと思うと自然と溜息が出た。
 夜を通して活動し、陽の光を避けて眠りにつく。それが闇の世界に棲むヴァンパイアの普通の生活だ。朝起きて夜更けに眠るヴァンパイアなど、ダストの主人レイフォードしかいないだろう。
 太陽の光も聖なる力も、毛先ほどの影響すら彼に与えることはできない。むしろ好んでそれらを受け入れているところもある主人だった。
 それは、本来自分に仇為すはずのものすべてを凌駕する力があればこそ出来ることなのだろう。
 そんな強大な力を持ったレイフォードを、心の底から敬愛している。けれども最近ダストは考えてしまうのだ。自分は何のために使い魔になったのだろうか ―― 。
 自分のような下級魔コウモリが上位魔族の使い魔として血の契約を交わすには、それぞれ理由がある。仲間たちの多くは上位魔族と契約を結ぶことで力を得、強くなりたいと言っていた。
 しかしダストはただ、レイフォードが好きだから仕えているにすぎなかった。レイフォードと主従の関係を結んだことで、かなり強い力を得たことは確かだったけれど。そんなのはただのオマケでしかなかった。
 好きでなければ五百年も家事なんてやっていられるわけがない。使い魔の仕事が屋敷の家事一切を取り仕切ることだなどというのも、レイフォードくらいなのだから。
 他の魔族のようにレイフォードが人間狩りでもすれば自分も一緒に連れて行ってもらえるのだろうけれど、そんなことは有り得なかった。
「今日だって、レイフォード様はあのバカ聖獣に付き合ってお出掛けになっちゃったしさ」
 拗ねたように呟いてみる。結局のところ、リュカにレイフォードを取られて悔しいだけのダストだった。
「いっつもあいつがべったりだから、なかなか僕はレイフォード様と御一緒できないんじゃないか」
 ぶつくさと不満を漏らしながら、モップを綺麗に洗って用具入れに戻す。
 自分が一緒に行きたいと言えば、おそらくご主人様は連れて行ってくださるだろうとは思う。けれども、リュカが一緒だと自分はオマケのオマケのような気がして嫌なのだった。
「今頃は、エクトの谷に到着されているころかなぁ」
 ダストはためいき混じりにぼやく。今日何度目の溜息なのか。数えるのも馬鹿らしい。
「それにしても、ほんっと唐突なんだもんなぁ。あのバカ聖獣は」
 朝起きるなり「紅葉狩りに行きたい」などと叫んでレイフォードをたたき起こしていたリュカを思い出し、ダストは呆れたように頭を振った。
 そんな言葉に付き合って、あの小さな聖獣をエクトの谷に連れて行ってあげるご主人様も甘いのだけれど。
 なんのかんのと文句を言いながらも、レイフォード様はあのリスのような聖獣に甘過ぎるくらい甘い。御自分では気付いていないのだろうけれど、傍から見れば甘々の大甘の親ばかだっ!
 そう叫びながらダストは、ぽすっとソファに寝転がる。
「あー。なんか頭来たぞ。レイフォード様は僕のご主人様だし、あいつはただの居候なのにさっ」
 足をばたばたと駄々っ子のように動かして、うつぶせにうずくまる。その目には大粒の涙が浮かんでいた。
 いつもは普通に諦めて、こんなふうに泣き喚いたり怒ったりしないのだけれど。今日だけは、レイフォードと二人でゆっくりと話がしたかったのだ。
 ダストは拗ねたようにソファに置かれたクッションをぎゅっと抱え込みながら目を閉じる。
 今日は、何百年もその昔、自分が初めてレイフォードに会い、そして契約を結んだ日だったから ―― 。


 初めてレイフォードを見たのは、月の綺麗な夜だった。
 満月の明々とした光を浴びて静かに崖の上に立っていた青年。腰まで伸びた艶やかな黒髪が風に舞い、まるで黒い翼のように見えたのを今でもダストははっきりと覚えている。
 青年の漆黒に流れる長い髪と、山を紅く染める紅葉と、冴え冴えとした月明かりのコントラストがあまりにも美しく、ダストは息をするのも忘れたように見惚れた。
 当時人型すらとれないほど下級魔だった自分にとってはあまりに圧倒的で、怖ろしいまでに強い存在感。
 その強い『気』に青年が人ではないとすぐに分かった。けれども魔族特有の禍々しい闇の気配は感じられず、むしろ静かな……どこか哀しげな気をまとっているように感じられた。
 だから ―― ひどく心に残って。そしてまるで引き付けられるかのように興味を持った。
 それでもやはり近づくのを怖れるようにハタハタと上空を羽ばたき、ダストはしばらくの間、遠くから青年の姿を眺めていた。
「何か用か? 用があるなら降りて来い」
 ふと、青年が天を振り仰ぎ、自分に向かってそう言った。それはとても静かな口調だったけれど、その声に打たれたようにダストはへなへなと力が抜けてしまった。
 羽ばたこうとしても、力が入らない。これが人間だったなら『腰が抜けた』とでも言うのだろうかとバカなことを考えながら、ダストは重力に引かれるままに落ちていく。
「……ばかか、おまえは」
 そのまま地面に激突するかと思いきや、苦笑でもするかのような声が聞こえ、ダストはふわりと暖かいものに包まれていた。おそるおそる目を開けてみると、自分は青年の手の上に乗っていた。
「降りてくるのと、落ちてくるのは大違いだと思うがな」
 深紅の瞳を可笑しげに細め、青年はダストを見やる。ダストは自分を覗き込む青年の視線と、その可笑しそうな声音に驚いたように目を見張った。
 深紅の瞳は魔の証。しかも強力な。今現在いる魔族の中でも深紅の瞳を有するものは、ほんのごく僅か。数名だと聞いたことがあった。
 他者を威圧し射竦めるようなその深紅の瞳が、けれども何故かとても優しいとダストは思った。
「……お、驚いてしまって。ご迷惑をおかけしてすみません」
 気力を振り絞り、なんとか言葉を発することが出来たダストは、ぺこりと頭を下げて自分の力で羽ばたこうと試みる。しかしまだ腰が抜けているのか、それとも緊張のあまり身体が固まってしまっているのか、ほんの数センチさえも浮かび上がることは出来なかった。
「まさか呼んだくらいで硬直するとはな」
 からかうような笑みを浮かべ、青年はダストの身体をさっとひと撫でする。そうすると、ふわりと全身を縛めていたような緊張感が解け、身体が軽くなったような気がした。
 びっくりした。上位魔族なんていうものは得てして傲慢で冷酷で、自分のような下級魔などゴミ蟲のように扱うものだと思っていた。普通ならば、このまま握り潰されても仕方ないような状況だ。上位魔族に、下級魔に対する厚意などというものは有り得ないのだから。
「あ、ありがとうございます。でも僕、何も……」
 もしかしたら何か要求されるかもしれないと思い、ダストはおずおずと顔をあげる。もし何かを言われたとしても、自分にはそれを成し遂げる力はないだろうと思うと恥ずかしく、そして怖ろしかった。
「……ふん。別におまえから何か貰おうなんて思ってないさ」
 青年は呆れたように片方の眉をひょいと上げ、ダストを見おろしながら苦笑した。
 気紛れだったのかもしれない。けれども、その青年の言葉も表情も。今までダストが上位魔に対して持っていた考えをすべて一気に覆すものだった。
「ぼ、僕はダストといいます。あの……あなたは?」
 力の弱い魔が上位の魔に対して名を教えるということは、服従すると言うに等しい。けれども、そういうつもりではなく、ただ純粋に、この青年に自分という存在を覚えて欲しかった。
 そしてまた、彼の名前が知りたかった。彼ほどの強大な存在がそう簡単に自分のような下級魔に名を教えてくれるはずもないと、分かってはいたけれど ―― 。
「名か? レイフォードだ」
 こともなげに、青年はそう名乗った。あまりにあっさりとそう言われたので、ダストのほうが驚いて、なんでそんな簡単に名前を教えてくれるのか。思わず、そう訊いてしまったほどだ。
 魔族にとって名はその存在を表す誇りだ。意に沿わぬ者には決して教えないし、呼ばせもしない。弱者が許可も得ずにその名を呼ぼうものなら、殺されても文句は言えないはずの重要なモノ。それを ―― 。
「名を訊いて来たのはそっちだろうが」
 ひょいと肩をすくめて、レイフォードは唇の片端を吊り上げる。
「それに、名前っていうのは呼ぶためにあるもんなんだよ」
 誇りだとかそんなものは関係ない ―― 。
 その眼差しがふっと和らいだかと思うと、微かな笑みが青年の口元に浮かんでいた。その切れ上がるような笑みがとても鮮やかで。綺麗で。ダストは再び青年に見惚れてしまう。
 しかしまさか己の名をそんなふうに考える魔族がいるとは、ダストは思いもしなかった。そんな青年の名を心の中で何度か繰り返し、そして、はっと何かに気が付いたように目を見開く。
「……レイフォードって……もしかして……あの……ヴァンパイアの??」
 その深紅の目に『魔』だということは分かったけれど、彼がどういう種類の魔族なのかまではダストには分からなかった。この人がもし"あのヴァンパイア"なのだとしたら、この異端ぶりも納得できるというものだ。
「"あの"っていうのが何を指してるのか知らないが……。まあ、ヴァンパイアでレイフォードという名を持っているのは俺だけのはずだ」
 だからなのだ ―― 。ダストはそう納得した。
 だからこんなにも強い存在感を放ちながら、この人は他の魔族とはまるで違った感覚を持っているのだ。
 ダストは以前、風のうわさで聞いたことがあった。同族の中でも破格の力を持つと云われ畏れられる"あのヴァンパイア"は、よりにもよってその幼い頃を人の手で育てられたのだ ―― と。
「ダスト、もう飛べるだろう? 俺はそろそろ帰る」
 いつまでも手の上に乗っている小さなコウモリに、レイフォードは退くようにと促してくる。邪魔ならばそのまま放り出せば良いのに、そうしないところがこの人なのだと、ダストは思った。
 慌ててはたはたと飛び上がり、ダストは青年にぺこりと頭を下げる。そうして彼が自分に背を向けて立ち去ろうとしたのを見たとき、こらえきれずに叫んでいた。
「僕も、連れて行ってください! あの……僕あまり力は強くないですけど……なんでもしますから」
 もっとこの人のことが知りたいと思った。いや、そばに居たいと思った。
 今にも宙に消えようとしていた青年は目を丸くしてダストを振り返った。そうして少し考えるように深紅の瞳を細め、鮮やかに笑った。
「ふ…ん。あの屋敷に一人だと不便だからな。家事をやるなら来てもいいが」
「や、やります!!」
 いきなり家事をやれと言われて驚いたけれど、それでこの人のそばに居られるのなら何でもいいと思った。そうして、自分はこの屋敷に来ることになったのだ。
 このときのレイフォードが大切な人間の友を失ったばかりだったということをダストが知ったのは、それから何十年も経ってからのことだった ―― 。


 ふと、視線を感じてダストは目を開いた。どうやら自分は眠ってしまったらしいと気がついたのは、あたりが既に暗くなっていたからだった。
「珍しいな。おまえが居眠りしてるなんて」
 向かいのソファに足を組んで座り、使い魔の様子を眺めていたレイフォードは、ダストが目覚めたのを見て可笑しそうに声をかけた。
「……れ、レイフォード様!?」
 先ほど感じたのはレイフォードの視線だったのだと理解して、ダストは慌てたように立ち上がる。
「お帰りだったんですね。すみません!!」
 恥じ入るように頭を下げるダストに、レイフォードは軽く苦笑するように唇端を上げた。
「別に謝るようなことじゃないだろうが。それよりダスト、少し出るか?」
「えっ?」
 突然の誘いに、ダストは目をまるくした。よく見てみれば、いつも主人の周りにべったりとまつわりついている聖獣の姿が見えない。
「レイフォード様、あのバカ聖獣は一緒じゃないんですか?」
「リュカなら、ユラたちに会いに町の塔へ行ったよ。……にしても、おまえ本当にリュカの名前を呼ばないのな」
 くっくっと可笑しそうにレイフォードは肩を揺らした。
 対抗意識の表れなのか。この使い魔がリュカの名を呼んだのを、レイフォードは一度も聞いたことがない。
「じゃ、じゃあ二人で出掛けるんですか?」
 ぱっと嬉しそうな表情がダストの満面に広がった。リュカがいないことも嬉しかったし、レイフォードが夜の散歩に誘ってくれたことはもっと嬉しかった。
「夜なら、おまえも楽に出られるだろ。月明かりの下の紅葉は、陽の下で見るのと違ってまた綺麗だからな」
 にやりとレイフォードは笑う。夜目の利く彼らにとって、それはまた格別の楽しみ方だ。
「そういえば、おまえと会ったのも月の紅葉だったな」
「……レイフォードさまぁ」
 ダストはふにゃっと眉を下げた。ご主人様は、自分の事をちゃんと考えてくれているのだ。そう思うと嬉しく、そして今朝そのことに少しでも疑念を抱いた自分が恥ずかしかった。
「一生ついていきますから!! あのとき僕は、レイフォード様に一目ぼれだったんですからっ!」
 思わずそう宣言して、ダストはしっかとレイフォードの目を見やる。
「おまえ、だんだん言うことがリュカに似てきたんじゃないか?」
 呆れたように苦笑して、レイフォードはぽんぽんとダストの頭を軽くたたいた。
「まあ、いいけどな。だが、あんまりうるさいと追い出すからな」
 その深紅の瞳があざやかに笑む。
 やっぱり、この人の使い魔になってよかった。ダストはぐしぐしと目をこすりながら、元気よく「はい!」と応え、にっこりと笑った。

 そうしてゆったりと、月明かりに照らされた紅葉の谷を訪れる。
 美しいその景色の中で感激を新たにしながら、たまにこういうことがあるのなら、もうすこしあのバカ聖獣に優しくしてもいいかと、ほんの少しだけ思うダストだった。
 ゆるゆると夜は更けていく。これからが、自分たち魔の時間 ―― 。
 

.........Misty Night番外編『紅葉の谷』おわり


Misty Nightの番外編ショートショート第2弾です。
主人公はレイフォードの使い魔ダストで、ご主人様らぶ語りになっています(笑) まあたまにはこんな話もいいかなと……どうでしょうか?(不安)
番外編なのに、ちょっと重要ネタバレしてるし(をい)
そのことが本編で出てくるのは、あと2話くらい先かなと思ってます。本編もまたよろしくお願いします。

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2003.10.22 up
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