Misty Night |
「セル、はいるよぉ」 元気よく言いながら、答えも待たずにリュカは部屋に入る。 セレアは姿勢よく椅子に座って、何かの本を読んでいた。ちらと見ただけでも目が回りそうな細かい字がぎっしり書いてある分厚い本だ。リュカはセレアの机の上に駆けのぼりながら、思わず目をまるくした。 「なんの本を読んでるの?」 「神書だよ」 「祭司さんが仕えている神様の本?」 「ちがう。これは確か西の方で多く信じられている神様の本だったかな。いろいろな神書や聖書経典を読んで、一番自分に合っていると思った神を選びなさいっておっしゃって、祭司様がいろいろな本を買ってくれたんだ」 にこりと笑って、セレアは言った。 「それより、祭司様お出掛けになったの?」 先ほど出て行く音が聞こえていたのだろう。セレアは本に栞を挟んで脇に置くと、リュカに向きなおる。 「うん。エルナ行きの船におれが乗れるように頼んでくれるって」 「そっか。良かったね。ふた月かかっちゃったとしても帰れないよりはいいもんね」 ほっとしたように、セレアはリュカの頭を撫でてやった。そのわずかに細められた漆黒の瞳がどこか寂しそうに思えて、リュカは一瞬心が痛くなった。セレアにも、帰りたいところがあるのだろうか? 「セルも、どこかに帰りたいの?」 「僕? 僕はないよ。ここが僕の家だからね。でも、祭司様は故郷に帰りたいこともあるんじゃないかなと思って。……それがザレードっていう町だとは初めて知ったけど」 そう言うと、セレアはこくんと、もう冷め切っている紅茶を一口飲んだ。 「そんなことないよお。祭司さんにとってもここが帰る場所だと思うよ。セルのこと本当の子供みたいだって言ってたもん」 「うん。知ってるよ。何度か言ってくれたこともあるし」 少年はくすりと笑った。そうして椅子の上で大きく伸びをすると、ゆるりと立ち上がった。 「でも、僕はたぶん人間じゃないから」 「……え?」 リュカはきょとんと目をまるくした。彼自身の口からその言葉が出るとは思わなかった。しかし"たぶん"と言うからには確証はないのだろう。ただ、そう考える根拠はあるということか? 「僕には人が持つはずのない力がある。それを祭司様が封じてくださってるんだよ。だけど時々、胸の奥がざわざわと騒いで何もかも壊したくなる時があるんだ。今日もそうだった。だからね、人に会わずに済むように森で休んでいたんだよ。あの森は、なんとなく気が鎮まるから」 木で出来た窓を開けながら、セレアは明るく言う。窓から流れ込んだ涼やかな風が、さらりと少年の黒髪を撫でるように通り過ぎた。 「……だから、祭司さんは自分がセルを苦しめてるって言ってたのかぁ」 この少年が天人なのか魔なのか。それとも偶然に力を持ってしまった人間なのかは分からないけれど、普通に町で生活するためとはいえ本来在るべき力を抑え込まれているから、無意識のうちに鬱屈したものが溜まって時々暴発しそうになるのかもしれない。しみじみとリュカは納得する。 「そんなこと言ってた? でも、封じてもらっている僕よりも封じている祭司様はもっと大変なんじゃないかな」 ぽすっとベッドの端に腰をおろしながら、セレアは苦笑した。 「……そんなものかなぁ?」 リュカは理解できないと、頭を振った。 「たとえば、リュカがお城だって言ってたニクスの防波堰と同じかな。暴風雨で氾濫した海や高潮は勢いに乗って堰を壊そうとするけど、それを食い止めるあの堰はかなりの強度や高さを必要とするよね。しかも……祭司様が抑えている"この海"は暴風雨なんかなくても絶えず氾濫しようとしているんだもの、その強度を保ち続けてるのは大変なことだと思うよ」 そう言うセレアの黒い瞳が可笑しそうに笑むのを見て、リュカは意外に思った。この少年は自分が"人ではないかもしれない"ということを、まったく気にしていないように見える。それどころか、己の持つ力の凶暴さを理解している。 祭司があれほど気にしていたそのことを、セレアは笑顔で口にするのだ。それは、周囲を心配させないための強がりなのかもしれないけれど ―― 。 そんな性格の持ち主を、やはり自分は知っているとリュカは思った。 「セルは、おれの友達にせーかくが似てるかも」 他人の だから余計に祭司はセレアのことが心配なんだろうなと考えて、リュカはズンと落ち込んだ。 セレアが学校に行かず森で気を鎮めていたように、レイフォードが夜の散歩に出掛けなかったのには理由があったのではないだろうか? それなのに、自分は相手を気遣いもせずに『なんで? どうして?』と怒るだけで、本気で理由を知ろうとはしなかったのだ。 こんなことだから自分は彼に対等の友人と認めてはもらえないのかもしれない……。リュカはがっくりと肩を落とした。 「でもね……言ってくれなきゃわかんないことだってあるんだよおっっ!」 純白の頬をぱんぱんに膨らませて、リュカはじたばたと暴れるようにわめいた。 「リュ、リュカ?」 突然わめきだした聖獣に、少年は目をまるくした。 そんな少年の端正な顔を恨めしそうに見上げると、リュカはとてとてと肩に駆けのぼる。 「あのね、セル。大切な人が独りで悩みとか苦しさとかを抱え込んでるのって、すっごくつらいことだと思わない? なんで自分には話してくれないんだろうって。そりゃ、おれは頼りないかもしれないけど、一緒に悩むことぐらい出来るのにって、悔しくて悲しくなるだろお? だから……」 驚いたように自分の話を聞いているセレアの頬に小さな手のひらを押し付けて、リュカは一度言葉を切った。そうしてひとつ大きく息を吸うと、 「セルは、もっと祭司さんに甘えるべきだと思う!!!」 その身体のどこから出るのかというような大きな声で自分の考えを主張する。前後の言葉に何の脈絡もないように思えるその主張は、けれどもセレアにはきちんと通じたようだった。 「うん。大丈夫。甘えてるよ。いっぱいね」 くすくすと笑ってリュカの頭を撫でる少年の、綺麗な漆黒の瞳がとても柔らかな笑みを宿していた。 「うーん……それならいいんだけどぉ……」 セレアの表情があまりにも穏やかで、力いっぱい主張した自分がバカらしく思えてくる。いささか気恥ずかしくなって、リュカはすとんと腰をおろしたセレアの肩で、ぱたぱたと脚をばたつかせた。 「 ――!?」 刹那、何かを感じたようにセレアの眼光が険しさを含んで大きく揺れた。子供らしい端正な顔が、みるみる蒼白になっていく。 「どうかしたの、セル?」 「祭司さまが……」 窓の向こうで沈みゆく茜の夕日を睨むように、セレアは小さく呟いた。 「……行かないと!」 言うが早いが、彼は風のように家の外へと走り出る。何が起こったのかは分からなかったけれど、その肩から振り落とされないようにリュカは必死でしがみつくのが精一杯だった。 「その子供たちをこちらに渡せと言っているんだ」 すらりと抜き放った剣の切っ先を初老の祭司に向けて、若い男がすごむように睨んでいた。その右頬から右肩にかけて、なぜか乳白色の液体が僅かに滴っている。 「お渡しすることは出来ません。この子たちはきちんと謝罪しました。剣を以って罰を与えることはないかと存じますが」 祭司は目の前に刃をつきつけられてはいるというのに臆したふうもなく、笑みさえ浮かべて対峙する。その背後には、震えながら祭司の服を握りしめるように隠れている二人の幼い子供がいた。 道端にはやや大きめの甕が転がり乳白色のミルクが流れ出ていた。おそらくこの幼子たちが甕をひっくり返してしまった際に、ミルクがあの若い男にかかったのだろう。 普通であれば謝罪してタオルのひとつでも渡せば済むような出来事だ。ただ、相手が悪かった。彼はルートニクスの……否、この辺り広域のニクス地方を治める領主の息子であり、その性格は傲慢で残忍だと知られていた。 「犯した罪は償わなければならないと、我らの神は言ってなかったっけな? ライカール祭司」 あくまでも子供たちを渡そうとはしない初老の祭司に、若い男は目を怒らせる。 相手が神に仕える祭司だからと思えばこそ、いきなり斬り付けたりはしなかったけれども、男のこめかみに立った青筋が怒りの大きさをあらわしているようだった。 「この子たちの犯した過ちは微々たることです。許されない過ちは、貴方が今なさろうとしていることの方です」 凛と強い眼差しを青年に向けて、祭司は諭すように言う。 「さあ、君たちはもう行きなさい」 しっかと青年を見据えたまま、祭司は背後に隠れている幼子たちに逃げるようにと促した。幼い子らにこんな蛮行をいつまでも見せていたくはなかったし、早く安全な所に逃がしてやりたかった。 子供たちは恐ろしさに立ち竦んでいたけれども再度祭司に促されると、ようやく泣きださんばかりに駆け去って行った。 「まて、このくそがきども!!」 「冷静におなりなさい、これ以上幼い子供に恐怖を与えてどうしますか?」 追いかけようとする青年の前に立ちふさがり、祭司はなおも諭すように言いつのる。 「……うるさい、ジジイ!」 獰猛な獣のように歯を剥いて、男は叫んだ。自分の邪魔をする者も、ましてや説教する者も許せなかった。自分が時々おとなう教会の祭司だからと、最初は見逃すつもりでいたけれども、ここまで虚仮にされてはそんな信心の欠片も吹き飛ぶというものだ。 領主の息子は業を煮やしたように剣を振り上げた。 「やめろっ!」 その男の動きを止めたのは鋭い少年の声だった。いつもであればそんな外野の声など気にせずに剣を振り下ろしているところだが……何故か身体が動かなかった。 「セル? どうしてここに?」 駆け寄ってきたセレアと聖獣の姿に、祭司は目をまるくした。家で待っているとばかり思っていたのに ―― 。 「急に祭司さんが心配だって言って、セルが飛び出したんだよぉ」 しっかりと少年の襟首にしがみ付きながら、リュカは息をきらせるように言った。おそらくセレアは祭司に危機が迫っていることを感じ取っていた。やはりセレアには何かの力があるんだろうと、リュカは改めて思った。 「そうか……ありがとうセル。でも、危険にみずから関わることはないんだよ?」 祭司は少年の身を案じるように言う。 「………………」 けれどもセレアは祭司の言葉に応えようとはせず、ただじっと若い男を睨むように見やっていた。 その肩が、ざわりと揺れた。少年にしがみ付いていた手が突然しびれたように感じられて、リュカは思わず悲鳴を上げて飛び退いた。 「わっ。わわ。なんだよぉ!?」 まるで電気が走ったかのようなその痛さに涙目になりながら、地面に落下したリュカは抗議しようと少年を見上げる。そして、息を呑んだ。 先ほどまで穏やかだったセレアの"気"が、ほんの僅かな時間でリュカにとっては毒ともいえる禍々しい闇の……魔の気配に変わっていた。 「セル……?」 リュカは悲しげに少年を見上げた。あのような気配をまとっていては、もう自分はセレアに近づけない。レイフォードやダストのように邪気のない魔の気なら大丈夫なのだけれども ―― 。 「いけない、セレア!」 その変化に気が付くと、祭司は悲鳴のように少年の名を呼んだ。 それでなくとも今日は例の"発作"が起きそうだと言っていたセレアの心が、あの青年への怒りに触発されて大きく乱れていた。それは、自分が施している封印など今にも突き崩してしまいそうな勢いだった。 「むやみに人を傷付けてはいけないんだよ、セレア!」 ゆらりと若い男に立ち向かおうとする少年を背後から抱きしめて、祭司は必死に声をかける。魔族としての本能ではなく、自分自身の心を取り戻して欲しかった。そうでなければ、自分がこの子を育ててきた意味はないのだから。 「……祭司様」 そのぬくもりに、セレアを覆っていた闇の気配が一瞬薄れた。けれども ―― 「な……おまえ……その目……魔物か!?」 若い領主の息子は自分に向けられていた少年の眼差しに、驚愕したように呟いた。あれは、人間の目ではない。力に溢れた魔が持つ忌まわしい目だ。 魔の子供を見つけたら殺してしまえというのがこのニクス地方での常識だった。成長して手が負えなくなる前に殺しておかないと、後々町に災禍をもたらすから……と。もちろん子供でも強力な魔族はいるのだが、それを分かろうとしないのが人間の愚かさだ。 「まとめて俺が退治してやる。祭司のくせに、魔物なんかをかくまいやがって!」 吼えるようにそう言うと、若い男は再び剣を振りかざした。 消えかけていたセレアの闇の気が、再び勢いを増して辺りをおおう。そうして男を睨み据えるように見開いた少年の目は……深紅の色に染まっていた。 「あっ!! だ、だめだよセル!!」 深紅の瞳を見て、リュカは思い出していた。セレアという名を自分が以前どこで聞いたのか。そして、なぜ彼のことが懐かしく思えたのか ―― 。 レイフォード・セレア・ディファレナ。それが友人のフルネームだった。面差しも性格も、この少年はレイフォードに良く似ているのだ。だから……というわけではないけれど。彼を助けたいと、リュカは強く思った。 刹那、リュカの身体から眩い光が放射した。神の泉で転変を起こした時と同じくらいの眩い光。 けれどもリュカの姿はそのままに。今にも二人に剣を振り下ろそうとする青年と、その青年への反撃に魔力を放とうとしていた少年。そして彼を抱きかかえる初老の祭司。まるでそこだけ刻が止まったかのように光に照らされ凍りつく。 「セルは優しい子なんだもん。絶対にダメなんだからっ!!」 あの若い男にセレアのことを殺させやしない。そして、セレアにもあの領主の息子を殺させない。それがリュカの望みであり、祭司の願いであるはずだった。 「……あれ? 俺何してるんだ、こんなところで」 しばらくして光が収まると、若い男はきょとんと目を丸くした。なぜ自分が剣を抜いているのか覚えていなかった。リュカの光の力なのだろうか。幼子たちにミルクをかけられてから今までの記憶がすっぽりと消えうせていた。 辺りを見回してみても何もないし誰も居ない。男は不思議そうに何度も首をひねると、自分が寝ぼけてでもいるのかと思ったらしく、剣を鞘にしまうと軽く頬を叩く。 「今日は早く家に帰るかな……」 狐につままれたような表情で、男は足早にその場所を去っていった。 「よ、よかったぁ。おれにこんなことが出来るなんて思わなかったよぉ」 その様子を見送ってから、リュカは小さな腕を胸にあてて、ほおっと大きな息を吐きだす。ここにレイフォードが居れば、火事場の馬鹿力とでも言って笑われたかもしれない。 けれども、先ほどの窮地を自分の力で切り抜けられたのは確かなのだ。リュカはなんだか嬉しくなった。 「セレアの様子はどう?」 祭司とセレアは、領主の息子から遠ざける為に光の中で少し離れた川岸へと移動させていた。祭司は光が消えるとすぐに我を取り戻したけれど、セレアはまだ意識を失ったままだった。 「まだ目が覚めないけれど大丈夫。脈も正常に戻っているからね」 やんわりと、初老の祭司は笑った。先ほど少年をおおっていた魔の気も、今ではすっかり失せている。 「セル、魔族だったんだねぇ?」 「ああ……」 初老の祭司は静かに頷いた。 十年前。森の中で小さなセレアを見つけた時から、それが魔の子供だというのは分かっていた。本来ならば教会に引き渡して"処分"するべきだった。けれども ―― 自分を見つめてくる澄んだ瞳が可愛く思えて……けっきょく彼は自分の手元で育てることを選んでしまったのだ。 「でも、本当にいい子なんだよ……」 横たわる少年の額を愛しそうに撫でる祭司のその表情は、まさに子を慈しむ親のものだ。 「うん。知ってるよぉ。おれのこと助けてくれたもん」 にこにこと。リュカは笑った。魔族を目の仇にしたり、異常に怖れすぎる奴らなんかよりも、彼のような人間の方がずっとずっと素敵だとリュカは思う。 「おれとレイ……聖獣とヴァンパイアが一緒に100年も暮らせてるんだもん。祭司さんとセルもずーっと一緒にいられるよ」 リュカは胸を反らすように自信たっぷりに言った。 「ははは。そう言ってもらえると、なんだかほっとするよ」 祭司は嬉しそうに微笑むと、肩に駆けのぼってきたリュカの毛並みを整えるように優しく背を撫でる。人間よりも魔の天敵でありそうな聖獣がヴァンパイアと一緒に暮らしているという事実は、何よりも心強く思えた。 そんな二人の話し声に呼び起こされたように、眠っていたセレアの表情がかすかに動いた。長い睫毛が震えるように揺れて、ぱちりとまぶたが開く。 「……あ……祭司様……リュカも……」 ぼんやりと開いたそのまぶたの奥から現れたのは ―― 漆黒の瞳。綺麗な黒真珠のようなそれが、二人の姿を映してにこりと笑んだ。 先ほど瞳の色が深紅に見えたのは光の加減だったのか。それとも、祭司の封印によって力が抑えられ瞳の色も変わっているのか……。けれどもリュカは、どっちでもいいやと思った。こうして再びセレアの近くに寄れるようになったのが嬉しかった。 「さっ、家に帰って晩ご飯にしようよ! おれ、おなかぺこぺこになっちゃった」 おなかの辺りを小さな手で押さえて、おどけたようにリュカは叫ぶ。聖なる力を大量に使ったからなのか、またまたかなりの空腹になっていた。 「船長に乗船を頼みに行かなくてもいいのかい? 明朝にはエルナ行きの船は出るよ。そのあとはまた何ヶ月後に出るか分からないが……」 祭司は目をまるくしてそう訊いた。早く、ザレードに帰りたいのではなかったのだろうか? 「うーん。だって、船で二ヶ月はやっぱり遠いよ。でね、おれ思ったんだあ。レイはおれが心から帰りたいって願えば、どんなに遠くてもちゃんと迎えに来てくれるんじゃないかなって。まあ……げんこつはもらうだろうけどさ」 レイフォードはいろいろと意地悪も言うけれど、今まで一度だって見捨てられたことはないのだ。何かあればちゃんと助けに来てくれていた。だから、今回もきっと大丈夫。能天気な聖獣はそう言って、えへへへと笑った。 「信頼してるんだね」 セレアはくすくすと笑った。 「えへへ。祭司さんとセルを見てたらね、そう思ったんだぁ」 リュカは照れたように耳の後ろを軽く掻いた。そうしてまんまるな瞳を細めて二人を交互に見やる。 「あっ! でもレイがおれを迎えにここに来たら、きっと二人ともびっくりするよ。セレアとレイって、ほんと兄弟みたいに似ているんだからっ」 ぴょんぴょんと、祭司の肩の上ではしゃいだように跳びはねる。セレアとレイフォードが並んだところを想像して、リュカは可笑しくなった。 「リュカの友達と僕はそんなに似ている?」 「うんっ。まあ、セルはレイみたいに意地悪じゃないけ……うわぁっ!?」 あんまりはしゃいで高く跳びすぎたのか、着地の瞬間リュカはつるりと肩の上で脚を滑らせた。そのまま大きくバランスを崩して、小川の方へと真っ逆さまに落ちていく。 「リュカっ!?」 「リュカくん!!」 祭司もセレアも慌てたように手を伸ばして、小さな聖獣をキャッチしようと試みる。けれども ―― リュカの身体はふわりと宙に浮くと、そのまま空気に溶け込むように掻き消えていた。 *** 何かに呼ばれたような気がして、レイフォードはふっと窓の外に目を向けた。 すでに陽は東の天に上り、窓から煌くような朱金の日差しを部屋の中に投げかけている。 「朝か……」 昨日レイフォードは書斎から一冊の本を持ち出して来て、このソファで読んでいたはずだった。けれども本は最初に見たページより2、3頁進んでいただけで、その後はめくられた様子もなく少し開き癖が付いていた。 手にした本をただぼんやりと眺めたまま、自分は一夜を明かしてしまったらしい。そう悟って僅かに苦笑する。 ここ数日間。そんなことが続いていた。眠っているわけではないことは自分が一番分かっていた。ただ、ぼんやりとしてしまうのだ。 確かに、リュカやダストに『様子がおかしい』と言われても仕方がないか……。 今の自分の状況に小さく溜息をついて立ち上がると、レイフォードは窓を静かに開いた。 肩まで伸びた漆黒の髪が、流れ込んでくる風にさらわれるように宙を舞う。その風に、もう何時間もめくられることのなかった本のページがぱらぱらと微かな音を立てて閉じていった。 「……気持ちいい風だな。外に出るか」 レイフォードは軽く伸びをした。 「ダスト、少し散歩に出てくる」 ベッドの脇に掛けてあった外套をさらりと身にまとうと、隣の部屋にいるだろうダストに声をかける。慌てて顔を出したダストに、レイフォードは軽く笑んでみせた。 そのあざやかな笑みがいつもの"ご主人様"のもので、ダストは感激したように顔をくしゃくしゃにした。 「はいっ。行ってらっしゃいませ!!」 そんな元気な声に見送られて、レイフォードは思わず苦笑する。よっぽどこの使い魔には心配をかけていたらしい。 「帰ったらいつもの紅茶を頼む」 軽くダストの頭に手を置いてから、ふわりと朝やけの空へと舞い上がった。 久しぶりに浴びる外の風が心地よい。心なしか身体も軽かった。 確かに。昨日までの自分はどこか調子を崩していたのだろう。今となってみれば、レイフォード自身もそう気が付くことが出来た。 このところ天使の子供やら天人やら神の泉やら。強い聖気に接する機会が多かった。先日はリュカが魔の気を溜めこんでひどい目にあっていたが、逆に自分には聖気が溜まって、少し身体の調子が狂っていたのかもしれない。 思いのほか、彼らの聖気を自分の力へと変えるのに時間がかかったらしい。 「ふ……ん。焼きが回ったか」 肩をすくめるように苦笑して、レイフォードは天を仰いだ。 「そういえば、あのバカ。二日ちかく帰ってきてないんじゃないか?」 一昨日の夜からだから正確には一日半だ。けれどもそんなことは初めてだった。そのことに気が付いて、レイフォードはリュカの気配を探るように気をめぐらせた。そして ―― 呆れたように溜息をつく。 今までは不調のせいで気が付かなかったけれど、あの聖獣はずっと自分を呼んでいたようなのだ。しかもその気配はかなり遠いところから感じられた。 「呼べば俺が行くとでも思っているのか? ったく、あのばかリュカは……」 ふうっと溜息をついて仕方なさげに頭を振る。まったくもって手のかかる聖獣なのだ。 そんな文句を言いつつも結局は気配のする方へと向かうところが、ダストに『ご主人様は甘すぎる』と言われる所以なのだろうが。 「ここは……あいつがいつも昼寝してる森じゃないか」 気配を探った時には遠い場所に感じたというのに、レイフォードが辿り着いたのは屋敷にほど近い森の中だった。リュカのお気に入りの場所で、よく昼寝をしていると聞いたことがある。 「けっきょくここで寝てるのか?」 ふわりと地面に降り立って、レイフォードは木漏れ日が差し込む森の中をぐるりと見上げた。 風が起こす葉擦れの音と、ゆるやかに差し込む木漏れ日と緑の匂りはどこか心を鎮めてくれる。だから、レイフォードも森は嫌いではなかった。 穏やかな木漏れ日と森のかおりに和んだように、レイフォードの端正な頬に柔らかな笑みが浮んだ。 「わぁぁぁぁぁぁぁっ!」 その刹那。とつぜん大きな叫び声がしたかと思うと……ぽすっと。レイフォードの頭の上に何かがおおいかぶさった。 それは柔らかくて温かなもので ―― 思わずレイフォードはがっくりと脱力しそうになった。 「この……馬鹿リュカ!!」 寝ぼけて脚でも滑らせたのだろうか。木の上から落ちてきたリュカに、レイフォードは呆れたように言い放つ。まったく、この聖獣には情緒も何もあったものではない。 「え? え? あ……っ!! レイだー!! 本当にレイだよぉ。やっぱり迎えに来てくれんだぁ……わーん。嬉しいよぉ」 けれどもリュカはレイフォードの罵声さえも嬉しいというように、泣きださんばかりにしがみついてくる。 「ったく……勝手に言ってろ」 あまりにも大げさなリュカの喜び方に怒る気も失せたのか、レイフォードは軽く眉を上げて呆れたように溜息をついた。ふわふわの綿毛のようなリュカの身体が頬に触れるのが、妙にくすぐったかった。 「えへへへへ。だって嬉しかったんだもん。やっぱりレイはレイなんだなーって」 思ったとおり、ちゃんと自分を迎えに来てくれたのだから。 ひとしきりレイフォードとの再会を喜んだあと、リュカはいたずらっ子のような黒目をにんまりと細める。 「あのね、餓死しそうだったおれを助けてくれた友達を紹介するねっ」 自分に良く似たセレアを見たら、レイフォードはどんな反応をするのかな。わくわくとリュカはレイフォードを見やり、そしてセレアと祭司がいるはずの場所に目を向けた。 「……あ、あれ? いない?」 川辺だったはずのその場所は森の中に変わり、しかもセレアも祭司の姿もない。 リュカは一瞬きょとんと目をまるくして、そうして大きな黒目をぱちぱちと何度も瞬いた。 「どうした? まだ寝惚けてるのか?」 聖獣のあまりの呆けぶりが可笑しかったのか、くっくっと肩を揺らしてレイフォードは笑う。あざやかな深紅の瞳が穏やかに笑んでいた。 「寝ぼけてなんかないよお! レイってば、おれの恩人に挨拶もしないうちに連れ帰って来ちゃったの?」 小さな口を尖らせて、リュカは抗議するように右手のこぶしをつきあげる。せっかく友達が出来たのに、これではあまりに失礼だとリュカは思うのだ。 「はあ? 連れ帰ったも何も、おまえが勝手に俺の頭の上に落ちてきたんだろうが。馬鹿リュカ」 「そんなことないよ! おれは祭司さん達と一緒に川辺にいたんだよおっ!!」 ぱんぱんに頬を膨らませて言うリュカに、何を言ってるんだと呆れたように肩をすくめて、レイフォードはリュカの首根っこをつかむように目の前にぶら下げる。そうして近くの木枝に乗せると、ぴんっとその額を軽く指で弾いた。 「どんな夢を見てたのかは知らんが、ちゃんと目が覚めるまでそこにいな」 そう言うレイフォードが嘘をついているようには思えなかった。 「でもおれ、本当にルートニクスに居たんだよぉ……」 「……ルートニクス?」 レイフォードの眉が、その地名を聞いて不審そうに跳ね上がった。 「あの町は、もう何百年も前に地殻変動で海の底に沈んでるぞ」 「ええっ!? 海の底!?」 「ああ。海の底に潜りでもすれば、町の遺跡くらいはあるだろうけどな」 長い指をこめかみにあてて、考えるようにリュカを見やる。その眼差しは、どこか懐かしそうにも見えた。 「……じゃあ。やっぱり夢なのかなぁ……でもぉ」 リュカはしょんぼりと肩を落とした。セレアや司祭と会ったのも夢だったのだろうか。いつもみたいにレイフォードに助けてもらうのではなく、自分の力で窮地を切り抜けたのも。何もかも。 そう思うと、なんだか悲しくなった。 「セルや祭司さん……せっかく仲良くなったのになぁ」 夢だったからこそ、出て来た人物……セルがレイに似ていたのかもしれない。そう考えると辻褄が合う気はした。 「 ―― っ!?」 不意に、レイフォードが呼吸し損ねたように激しく咳込んだ。ごほごほと苦しげに咳き込むその様子に、リュカは慌てたように背中によじ登ってさする。 ―― 小さすぎて役に立つとは思えないが。 「だ、大丈夫? レイ、やっぱりどこか悪いの?」 こんなレイフォードの姿を見ることはめったにない。あまりに心配で、涙目になってしまうリュカだった。 「……な、なんでもない。ちょっとむせただけだ」 大きく肩で息をしながら、レイフォードは咳き込んだ苦痛というよりも、何とも形容しがたい不思議な表情でリュカを見つめていた。懐かしいというのか。それとも不可思議な物でも見たような……。 「まさか、な」 小さな声で呟くレイフォードの目許が、どこか気恥ずかしそうに赤らんでいるように見えた。 「なーに? なにが、まさかなの??? なにか悪い病気なの?」 耳ざとくその言葉を聞きつけて、リュカはぴょんぴょんと跳びはねる。 レイフォードは軽く口端をつりあげると、手のひらでおおうようにリュカの体を抱きとめた。 「ったく。なんでもない。さっさと屋敷に帰るぞ。ダストがおまえのこと心配してたからな」 にやりと。切れ上がるような艶やかな笑みがその口許に浮ぶ。あざやかに笑んだ深紅の瞳と、ふわりと風に舞う漆黒の髪が森の碧に良く映えて、とても綺麗だった。 思わずそんなレイフォードの姿に見惚れて、リュカは沈黙する。 ここ数日間影をひそめていたレイフォードの覇気が元に戻っているのが嬉しかった。この様子ならば、先ほど咳き込んだのは別に病気というわけではないようだ。 「えへへへ。夢だったかもしれないけど、レイにセルや祭司さんを会わせてあげたかったな。きっと、レイも気に入ったと思うんだけどなぁ」 ちょこんとレイフォードの左肩に腰をおろすと、リュカはやっぱり少しだけ残念そうにそう言って笑った。 「……どうだかな。まあ、俺も祭司には会ってみたかったけどな」 どこか懐かしそうに目を細めて、レイフォードは空を見上げた。森の木々の間から覗く朝焼けあとの淡い蒼の空が、とても優しく地上を包みこむように広がっている。 「ほら。さっさと帰るぞ、リュカ」 「うんっ!」 新しい一日が、また始まる ―― 。 第五夜 記憶の森 おわり |
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