▲ 番外編-------『或る憂鬱(』----------------▼
珍しく、ショーレンが難しい顔をしてうつむいていた。
普段は闊達な笑みを宿した藍い瞳が、どことなく沈んでいるように思え、隣でコンピューターのプログラムチェックをしていたウィスタードは首をかしげる。
この、いつも明るい青年がこんな表情をしているのを見るのは初めてだった。
「どーしたんです? ショーレン先輩」
学生時代からの変わらない呼び方でウィスタードは青年の顔を覗き込む。
ショーレンはちらりと顔をあげたが、すぐにため息をついてうつむいてしまった。
「ウィード、おまえ恋をしたことがあるか?」
手許のキーボードを何とはなしにいじりながら、ぽつりとショーレンは言った。
「……へっ!?」
ウィスタードは思わず奇声をあげてしまった。あまりにも意表をつかれた。
25歳という年齢なのだから、今までに付き合った女性などはいるのだろうが、ショーレンは普段そういうことをまるで感じさせない、さばさばとした性格だった。
それがいきなり「恋」などと言い出したのだ。ウィスタードが驚くのも無理はない。
「せ……せんぱい?」
「いや、なんでもない。ちょっと散歩行ってくる」
すっくと立ち上がると、ショーレンはもうウィスタードには目もくれず、メインコンピュータールームから出て行ってしまった。
「た、大変だ! ルフィアさんに相談しなきゃ!」
この研究所でショーレンともっとも仲の良いルフィアなら、何やらとちくるった様子の先輩を復活させてくれるかもしれない。ウィスタードはそう思った。
「え? ショーレンが、恋?」
左右色違いの瞳を丸くして、ルフィアは聞き返す。本人からそんな話はきいたことがなかったし、そぶりも見当たらなかった。
「そうなんですよ。俺もびっくりしちゃって!」
「あのショーレンがねぇ……」
新製品開発チェックのためにルフィアの研究室を訪れていた科技研総統のルナも、信じられないとばかりに頭を振った。
「でも、すっごい深刻な顔で俺に訊くんですよ? 恋をしたことがあるかって。あんなふうに悩むんだから、きっと難しい相手なんでしょうねぇ」
ウィスタードはそのときの自分の衝撃を伝えるべく、大げさなくらいの身振り手振りをくわえて言う。
「まあ、ショーレンも人間だもんね。好きな人くらい居てもおかしくないけど。でもねぇ、ショーレンが私に相談してきたならともかく、こっちから訊くのも変じゃない?」
恋に悩んでいるらしいショーレンの相談に乗ってくれないか、というウィスタードの言葉に、ルフィアは難色を示す。
自分自身の恋すらまともに扱いきれていないのに、そんな相談役など務まるとも思えなかった。
「ルフィアさんなら、前途多難な恋の心得とか教えてあげられるじゃないですか」
悪気のひとかけらもない満面の笑みで、ウィスタードはそう言った。
「 ―― !?」
「ウィスタード、それはルフィアにひどいわよ」
ルナは苦笑を浮かべ、無邪気な部下をたしなめる。
ルフィアが恋する人物を、彼女と親しい人間ならばほとんどが知っていた。ルフィアがはっきり言ったわけではないが、その態度から気付かないわけはない。
けれど確かに、ルフィアの相手はかなりの曲者なのだった。その想いを成就させるには、まずは彼女はこの科技研をやめなければいけないだろう。
「もうっ。みんな勝手にいろんなこと言わないでくださいよ」
ぷくりと頬をふくらませて、ルフィアは2人の会話をさえぎった。
「とにかく、ショーレンにはそれとなく話を聞いてみるから。君はコンピュータールームに戻って仕事ね」
これ以上自分の恋について話が波及するのを避けるように、ルフィアはウィスタードを部屋の外に追い出した。
「あれ? ウィード、ルフィア。何してるんだ?」
「ショーレン!!」
扉の外にウィスタードが押し出されたちょうどその時、はちあわせるようにショーレンが廊下をこちらに歩いてきていた。
「なんでもありませんよぉ。じゃあ、俺は仕事に戻ります。あとはお願いしますね、ルフィアさん」
にっこりわらって、ウィスタードは二人の脇をするりと抜けて走り去ってしまう。
「なんだ? あいつ」
「し、仕事の打ち合わせだよ。それよりショーレン、す、少しお茶でも飲んでいかない?」
いつものルフィアらしくもなく動揺しながら、研究室の中へと友人をいざなった。
ショーレンは首をかしげながらも、素直に部屋に入る。もともと、ここに来るためにあの廊下を歩いていたのだから、断る理由はない。
「あれ、ルナ総統もいらっしゃったんですか?」
「ええ。新製品の開発チェックにね」
艶やかな微笑を浮かべ、ルナは言った。
その言葉に、ショーレンは闊達な笑みを浮かべて優秀な技師の友人を見やる。
「やっぱ本当だったんだ。さっき散歩してたら、開発チームのやつがルフィアがシャトルの新製品を開発したって言ってたから、それを見に来たんだ」
「耳が早いね。いま総統にも見てもらって、OKが出たとこだよ」
嬉しそうにルフィアは笑った。
従来のスペースシャトルよりも大気圏を突破する際に操縦者にかかるGの負荷がかなり軽減されるのだと説明し、ルフィアは試作機をショーレンに見せた。これなら重苦しい防護服などは不要になる。
「へぇ。けっこう操縦系統はマニアックだなぁ。俺好みのマシンだ」
流線型の美しいシルエットを眺めながら、ショーレンは目を輝かせた。新しいおもちゃを買ってもらった子供のように、いろいろと細部までも見て回る。
「まったく、君は本当に好きねぇ。そんな顔されると、試運転にはショーレンをパイロットに任命しようかなんて思っちゃうじゃない」
ルナはくすくすと笑い、生き生きとシャトルの周りを動き回る部下を見やった。
「もう、ぜひっ!」
「ふふ。よかったね。ショーレン」
藍い瞳を凛と輝かせて嬉しそうな強い笑みを浮かべたショーレンを見て、ルフィアも笑った。自分の開発したものを見て、こんなに喜んでくれる友人が居るというのは、とても幸せなことだと思うのだ。
「リーファスセレイアっていう名前なんだ。幸運の女神の名前だよ」
「いい名前だな」
にこりと、ショーレンは瞳を細めて友人を見やる。
「ありがとっ」
ルフィアはその目を見返し、口許をほころばせた。ふと、そのショーレンの目許に普段は見慣れないものがあることに気が付いて、ルフィアの笑みが凍りついた。
それは、くっきりはっきりと現れた目の下のクマだった。
「…………」
思わず総統と目を見合わせて、先程のウィスタードの話を思い出す。
やっぱり、恋の悩みなんだろうか? ルフィアもルナも、信じられないものを見るように目を見張った。
「どうしたんだ? なんか俺の顔についてるか?」
「う、ううん。ただ、クマがすごいなって。もしかしてショーレン、眠ってないの?」
ショーレンは軽くため息をつくと、ぽりぽりとこめかみのあたりを軽くかいた。なんだか少し、今までの元気が失せたような気さえする
「何か悩みでもあるなら、人生の先輩が相談に乗るわよ」
ルナも冗談めかして、その実真剣にショーレンの顔をのぞき込んだ。この普段たいそう闊達な青年が、目にクマができるほどの悩みがあるならば、総統としても仲間としても放っておくわけにはいかない。
ショーレンは参ったというように軽く両手を広げると、手近に合った椅子を引き寄せて、背もたれを前にすとんと腰掛けた。
「ウィードだな。あいつが何か言ったんでしょう?」
「……ええ。恋の悩みなんじゃないかって」
ルフィアは恥ずかしそうにそう応える。
「まあ、確かにそうなんだろうなぁ。この間、公園で彼女に会ったその日から、どうも眠れないみたいなんだ。こんなことは初めてだよ」
軽く伸びをしてから、淡々とショーレンは語った。隠すつもりはないようである。しかし、ルフィアやルナにしてみれば、さらりと爆弾を投げられたような心境だ。
「あんまり食欲もないし。やっぱ、恋煩いってやつなのかな」
「その気持ち、わかるなぁ」
しみじみとルフィアは呟いた。そんなことを言うつもりはなかったのだが、つい口からポロリとこぼれていた。
「恋の病っていうのは、なかなか辛いものだからね。……ルフィア、お茶セット借りるわよ」
ルナはふたりの部下の様子に微笑むと、落ち着きをとりもどすように3人分の紅茶を入れて軽く机の端に腰掛ける。
「それで、そのお嬢さんはどこの娘なの?」
嫣然とした微笑を口許に浮かべ、ルナはショーレンを見やった。この部下の性格はよく知っている。科技研の中でも、その心持ちの好さはぴかいちだと思う。そんな青年に惚れられたなら、その娘は幸せ者だとルナは思うのだ。
ショーレンは椅子の背もたれに頬杖をついていたが、総統が淹れてくれた紅茶を取りながら、わずかに苦笑した。
「名前も住んでる場所も知らないんですよ。だから困っちゃって。同じ場所を散歩したりはしてるんだけど、あれから一度も会えないんだよなぁ」
意志の強そうな藍い瞳を翳らせて、青年はため息をつく。
「ひとめぼれ!?」
ルフィアは目を丸くした。ひとめぼれなどは、ショーレンには一番ありえないと思っていたシチュエーションだ。
「うん? ああ、そういうことになるかな。あれだけ可愛ければ仕方ないさ」
「…………」
かなりの重症だ。ルナはそう思った。ルフィアもまたそう思っているようで、2人で視線を合わせてため息をつく。
これはもう、本気で本当の恋煩いかもしれない。
「ねえ、ショーレン。私、探すの協力してもいいよ?」
この友人が本気で恋をしているならば、それを応援してあげたい。そうルフィアは思った。ショーレンと友人になってから5年。恋愛の話が出るのは初めてのことで、戸惑ってはいたけれど。
「そうね。私も手伝うわよ」
ルナはくすりと笑い、穏やかな眼差しを二人に向ける。まさか総統である自分が部下の恋愛話に首を突っ込むことになるとは思いもしなかったが、これはこれで楽しいとルナは思った。
「本当か? ありがとうな、ルフィア! すみません、ルナ総統」
闊達な藍い瞳に嬉しげな眼光をうかべ、ショーレンは笑う。
そのあまりに嬉しそうな口調に、ルナとルフィアは思わず顔を見合わせ、そしてやはりくすりと笑った。
「それで、どんなお嬢さんなの? 髪や瞳の色とか、特徴を教えてちょうだい」
探すには特徴を聞いておかなければならないだろう。ルナはまるでモンタージュでも取ろうとするかのように青年に問うた。
「髪は……そう。これみたいな艶やかな紅茶色」
さきほど総統が淹れてくれた紅茶を指差してから、ショーレンはあざやかな笑みを口許に佩く。そして彼女の姿を思い出すように瞳を閉じた。
「目鼻立ちも整っているんだけど、まんまるくて大きなヘーゼルの瞳が綺麗でさ、たまらなく可愛かったな」
聞いているこっちが照れてしまうようなことをショーレンはあっさりと言った。
どっかんと何か叫びだしたい衝動にかられながらも、ルナたちは根気よくその特徴を聞いていく。
けれども、あるところでハタと女性2人の眉間に皺がよった。
「いま、なんて言った? ショーレン」
「うん? だから、身長はこれくらい」
そう言ってショーレンが腕で示すのは、縦にではなく横に腕を広げて1mくらいの大きさだった。
「なにそれ?」
「だから、身長」
「それは分かったけど……なんで横に手を広げるの?」
「なんでって……普通は縦には測らないだろ。犬の身長なんて」
あっさりとショーレンは言い、変なことを訊いてくる友人と総統に首をかしげる。
「い……いぬ????」
「いぬーーーーーっ!?」
ルフィアは言葉を失ったように立ち尽くし、ルナは飲んでいた紅茶を危うく吹きだすところだった。
「ああ。綺麗なゴールデンレトリバーだよ。うちのレスティが一目ぼれした相手は」
レスティとは、ショーレンが飼っている犬の名前だった。
先日公園で散歩をしていたとき、とおりすがったメスのゴールデンレトリバーに一目ぼれをして、その日から寝付けず、食欲もなく、時おり公園のほうに向かっては遠吠えをしているのだという。
日々衰弱していくような愛犬を心配し、そしてまた遠吠えのせいもあって、ショーレンはこのところよく眠れなかったのだ。
「なんだぁ、レスティのことだったの?」
「……あれ? 言ってなかったか?」
「言ってません」
ぴしゃりとルナは言った。
あれだけ親身になって話を聞いたというのに、実は彼のことではなく、彼の愛犬ことだったというのだ。ばからしくて笑うしかない。
ショーレンは彼女達が何を勘違いしていたのか気がついて、楽しげな笑みをその顔いっぱいに広げた。
「もしかして、俺が恋に悩んでると思ったわけ?」
「思ったわよ!! だって、じゃあなんでウィスタードに『恋したことあるか』なんて訊くのよーっ」
確かにショーレンはひとことも自分のことだとは言っていないし、相手が人間だとも言っていない。
ウィスタードからの話を聞いていた自分達が、勝手にそう思い込んでいただけだ。思い込みってこわい。ルフィアはそう思った。
でも、紛らわしいことを言ったりするから、みんなが勘違いするのだ。ぷくりと頬をふくらませて、ルフィアは楽しげに笑う青年をにらむ。
ショーレンはすっくと椅子から立ち上がると、拗ねてしまった友人をなだめるように、頭を軽くぽんぽんとたたいた。
「わるいわるい。だってほら、ウィードって犬みたいじゃん」
にやりと笑って、とんでもないことを言う。ウィスタードが聞いたら、さぞや怒ることだろう。ここに居ないのが幸いだった。
「ショーレンにはやられたわね」
ルナも苦笑を浮かべ、もう一度ため息をついた。
「すみません、総統。でも、レスティのことで頭を悩ませてるのは本当なんですから、勘弁してくださいよ。俺もう一週間はまともに寝てないんですから」
ショーレンは長身をすくめるように、総統の顔を見やった。
「ふふ。分かったわよ。さっきの言葉は撤回しないわ。ちゃんと探すの手伝ってあげるから、今日はゆっくり寝なさい。寝不足でもうろうとした頭の人間にメインコンピュータも、新製品の試乗も任せられないからね」
くすりと笑って、ルナはショーレンの肩をたたく。
「了解しました」
意志の強そうな藍い瞳を楽しげに細め、ショーレンは敬礼してみせる。
思わず、3人は顔を見合わせて笑い出していた。
それから1週間後。レスティの一目ぼれの相手は無事に見付けることができた。
その後2匹の犬が仲良く並んで散歩をする姿と、犬たちのうしろを歩く品の良い老紳士とショーレンを、公園でしばしば見かけるようになったという。
相手の飼い主が素敵な女性でなかったことを、ショーレンがほんの少しだけ残念に思ったことは、ルフィアたちには内緒である ―― 。
『或る憂鬱』 おわり
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