降り頻る月たちの天空に-------第2章 <2>-------
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 水面に美しい影を落すように、大きな朱塗りの柱は悠然と海中にたたずんでいた。近づくにつれ、周辺の輪郭もはっきりと見えてくる。
 今まで迷宮の術の影響で海と空しか見えていなかったその場所に、濃緑に染まる雄大な山林に抱かれた大きな島が浮かんでいた。
 目にあざやかな緑を背に、海の中に佇む柱と同じ朱い色の回廊に囲まれた優美な建物がこちらを望むように広がっている。
「う…わぁ……」
 海の藍と。空の蒼。そして山の緑。その中心には優美な朱の色。それらが織り成す夢幻的な光景に、4人は息を呑んだ。
 人ならぬ神の絵筆で描かれたかのような美しい風景。すべてが微妙に絡み合い、己の美しさを最大限に表現しているような気さえする。
「あれって、確か『トリイ』とか言うんじゃなかったかしら?」
 セファレットは海の中に佇む大きな朱い柱を見やり、軽く首をかしげた。
 確か、祖父の家にも似たようなものがあった気がする。もちろんあんなに大きなものではなく、庭に入るような小さいサイズではあったけれど……。
「へえ、意外だな。ハシモトがあんな宗教的なものを知ってるなんて」
 感心したようにアスカは笑った。
 D・Eに来ると決まったあのあと、こちら側のことを少しでも知っておこうと古い書物を読み散らかしたアスカは、その中にあった『鳥居』に関する写真と記述を偶然見ていたので、あの朱い柱がなんなのかは分かった。
 あれは、神を祀っている『神社』という聖域に入る、門のような存在だ。
「うん、祖父が教えてくれたんだ。祖父の家の庭にも似たのがあってね、その向こうにちっちゃいお社があるの。確か神様の家みたいなものだって言ってたよ」
 セファレットは懐かしそうに瞳を閉じた。祖父の家には変わったものがたくさんあったが、その中でも印象に残っているのは、朱い柱とその奥にあった小さな社だ。
 自分が祖父の家を出てからもう4年になるが、それはとても美しく、どこか神々しい気をまとっていたのを憶えている。
「ふうん。ハシモトのおじいさんって、物知りなんだな」
 カイルシアという創世主がいたレミュールでは、宗教は影が薄い。宗教の代わりに『科学派』と『魔術派』があると言ってもいいくらいだ。
 そんな中で、神社や鳥居の存在を知っている人間は希少価値といえるだろう。
 ましてやそれは世界的なものではなく、ある特定の地域文化に見られる特有の建造物なのだと、彼が読んだ書物には記されていた。
「それにしても、あれだけ大きなトリイがあるんだ。相当大きな神社なんだろうな」
 アスカは感嘆したように息をついた。書物などで得た知識はあっても、アスカとて実物を見るのは初めてなのだ。
「向こうに見える朱い建物が、その『神社』っていうものなのかな? 島に上陸してみる? D・Eの実地調査もルナ総統に頼まれてるし」
 ルフィアは楽しそうにアスカに聞いた。
 こんな時のアスカは、探求心に満ち溢れた少年のようにみえる。彼はとにかく新しい知識を得ることが好きなのだ。
 そんなところはショーレンとよく似ている。そう思い、ルフィアは可笑しくなった。
「見てみたいね」
 にやりと、アスカは笑う。ショーレン捜索もしなければいけなかったが、少しくらいなら道を逸れても大丈夫だろう。もともとイファルディーナの計器は使い物にならないのだから、あとは自分達の勘を信じて探すしかない。
「あの島には、たぶん人がいるよ。……ショーレンではないみたいだけどね」
 ティアレイルはぽつりと呟いた。
 少し先にあるあの島から、ほんの僅かに生命の存在が感じられた。
 ロナたちの話では、D・Eの生命はあの『カイルシア事件』で完全に絶えているということではあったけれど ―― 。
「人がいるの? じゃあ、驚かさないようにしないとね」
 そう言って、ルフィアはイファルディーナを海に着水させた。いきなり空から行って、警戒されることを懸念したのである。
「すべてが荒野に変わったって言ってたけど、だいぶ元通りになってきてるんだね」
 ゆっくり陸へ近付いて行きながら、そこに息づく自然の美しさに、ルフィアは感嘆したように色違いの瞳を細めた。
 レミュールにある自然が洗練された美しさだとすれば、こちらに息づく自然は柔らかく、そしてとても暖かな美しさをもっているように感じられた。
 そしてまた、粛々とした清浄な空気が辺りをおおっている。
「あれは、笛の音?」
 大きな朱塗りの柱に触れるほどに近づくと、そこからまっすぐ続く海参道のその奥に、やはり朱の欄干に囲まれた高舞台が見えた。そこで、小さな白い影が揺らめいているのが見えた。
 風に乗って時おりティアレイルたちの耳に運ばれる笛の音に合わせるように、その影は静かな舞を舞っている。
 よく目を凝らしてみれば、それは白い小袖に緋袴という出で立ちの少女だった。その背後では、雅なものにはあまり似つかわしくなさそうな精悍な体躯の青年が、ゆうるりと笛を奏でていた。
「本当に人がいる……」
 セファレットは遠くに見える静かな舞を眺めながら、ほうっと息をついた。
 息を呑むような美しい光景だった。
 少女が舞うたびに黒く艶やかな髪が風にたなびき、きらきらと輝く光影がそれを追うように流れている。
「……風に力を与える舞だ」
 ティアレイルは魅入られたようにそれを眺めた。あの少女から発せられる気が、風に強い力を与えているのは魔術者である自分にはわかった。
 けれどそれは、先ほど風の中に感じた気配とは違う。まるでその気配の持ち主を援けるように、彼女は舞っている。そうティアレイルは思った。
 ふと、笛を奏でていた男の目が見開かれた。
 朱い鳥居の向こうに、異質な存在が訪れたことに気が付いたようだった。笛を奏でるのをやめて、高舞台から海に向かって突き出した桟橋の先にかけ出てくる。
 少女はちらりとこちらに視線を流したが、それでも舞はやめなかった。
 ―― 幽霊っ!
 男の口が嫌悪をあらわす形を作り出し、ぎりっとイファルディーナを睨みつける。
 刹那、強風が吹き荒れた。まるで、この景観の中に他者は邪魔だと言うように、強い向かい風がイファルディーナの進行を妨げる。
 波もそれに応じて高くなり、イファルディーナは嵐にあったように翻弄された。
「このままじゃ、波にのまれてしまうよ!」
「ルフィア、上昇しろっ!」
 ルフィアは慌てて窓を閉めると、車体の浮上を試みる。
 その反応の素早さになんとか海中に沈むことだけは免れたものの、意志を持ったように吹き荒れる風にあおられ、イファルディーナは天空に飛び立つことは出来なかった。
「これって、風陣の術なんじゃない?」
 さっきの優しい穏やかな風とはあまりに違うこの強風に、セファレットは叫ぶ。
 よく舌を噛まずに言えたものだと自分自身で感心してしまうほどに、その揺れは激しいものだった。
 こんなにも攻撃的な風は、強風で目標物を取り囲む『風陣の術』以外には考えられない。彼らがいる場所だけが荒れ狂っているのだ。台風や嵐などの天候でないということは言うまでもなかった。
 ―― 幽霊をこの神聖なる島に入れるものか!
 低い声が海鳴りのように辺りの空気を震撼させた。警戒心と嫌悪がビンビンと伝わって来る。
「ゆ、幽霊!?」
 4人は顔を見合わせた。それが自分たちのことを指しているのだとは分かる。けれど、そう言われる理由がわからない。
「……私たちを幽霊と勘違いするくらい、ここにはそれが出るのかしら」
 セファレットは不安げに身を竦めた。今までそんなものは見たことがなかったが、たくさんの人間が一瞬にして死んだというこのD・Eでは、そんなに幽霊が存在するのだろうか?
「…………」
 ティアレイルは無言のまま、瞳を閉じた。先程の声が指す『幽霊』は、死んだ人間という意味ではないのだろう。もしかすると、それは自分達レミュール側の人間を指しているのかもしれない。
 ―― こちらを犠牲にして生き延びた……本来ならば死に絶えているはずの『カイルシアの末裔たち』が!
 さっきの声は、心の中でそう叫んでいた。それがティアレイルには聴こえていた。
 レミュールの人間があの事件を忘れ去っていても、切り捨てられた側がそれを忘れるはずはない。
「たぶん、俺たちがこっちを『D・E』と呼んでるのと同じだと思うぜ。言葉なんて、使う人間によって意味が変わってくるものだからな」
 アスカは晴れた夜空のような紺碧の瞳に苦笑を刻み、頬をゆがめた。
 レミュールの人間がカイルシア事件を否定するということが、自分達が生き延びることが出来た理由を否定しているようなものであることを、アスカは承知していた。
 だからこそ『D・E』の人間は侮蔑と怒りを込めて、レミュール側の人間を幽霊と呼んでいるのではないだろうか、そうアスカには思えたのである。
 そしてそれは、ほぼ核心をついた解答だった。
「そっか……そうだよね」
 セファレットは哀しげに俯いた。
 彼らが自分達レミュールの人間にどんな感情を抱いているのか、はっきりと理解させられて切なくなった。
 確かに、彼らがレミュール側の人間に好意をもつ理由はない。
「そうだとしても、この風はどうにかしないと!」
 いつでも現実的なルフィアの声に、他の3人は頷いた。確かに、このままでは海に呑み込まれてしまう。人為によって起こるこの風を、止めなければならない。
「私が止める」
 風陣の術を使っているのは、あの桟橋に立つ青年だろう。彼に対して行動を起こそうとしたアスカを片手で制し、ついっとティアレイルは眦を吊り上げた。
 いつもの穏やかな表情はそこになく、牽制するような鋭い閃きがティアレイルの翡翠の瞳を彩っていた。
 その瞳に剣を宿し、まるで何かを振り払うかのように強く手を動かす。
 ぱしんっと、イファルディーナを覆っていた強風が弾けるように海を走った。
 仕掛けた強風を跳ね返され、男はあおられたようにバランスを崩してひざまずく。
 ―― 幽霊なのに。
 悔しそうに顔を上げ、男はじっとこちらを睨みつけていた。その眼光は、離れた場所にいるティアレイルたちを貫かんばかりに激しいものだった。
 そんな青年の傍に、今までうしろで舞っていた少女が舞をやめて歩み寄るのが見えた。その肩に手を置き、なにやら哀しげに首を振っている。
「……どうする?」
 アスカは3人を見回した。このまま島に上陸してもいいものか、それとも離れるべきなのか、判断に迷っていた。
「D・Eに張り巡らされていた迷宮の術は、たぶんこの島に辿り着くように織り成されていたのだと思う。それなら、彼らに話を聞いてみるのも良いのじゃないだろうか?」
 ティアレイルは静かに翡翠の瞳を窓の外にめぐらし、桟橋に佇む少女と青年の姿を見やる。彼らはじっと、こちらを見つめていた。
「……きゃっ、何?」
 不意にイファルディーナが動き出した。ガクンと大きな振動が起こり、四人ともバランスを崩してよろめいた。
 ルフィアが動かしているわけでも、コンピューターが自動で動かしているわけでもない。まるで何かに引き寄せられるように、陸に向かって動き出したのである。
 そして、イファルディーナ進む先には2人の人間が佇んでいた。
 二十代前半くらいの若い、精悍な顔つきの男。そして白い小袖に緋袴といういでたちの、先ほど舞を舞っていた小柄な少女。二人はじっと、社殿の建つ入り江にイファルディーナが入ってくるのを見つめていた。
 彼らが、イファルディーナを引き寄せていることは間違いなかった。
「出て来ていただこうか。裏側からのお客人」
 男はゆっくりと近付いてきて、低い声でそう促す。
「……出るか?」
 アスカは相談するように他の3人を見回した。はいそうですかと、気軽に出ていけるような雰囲気ではなかった。男の態度は、とても友好的なものには見えない。
「この状況じゃ、出るしかないんじゃない?」
 ルフィアはイファルディーナのコントロール系の装置を視線で示す。
 非情にも『制御不能』の文字を点滅させるコンピューターを見て、アスカは溜息をついた。
「まあ、どうせ俺たちだってここに上陸するつもりだったんだし、行くか」
 深い溜息をついてから、アスカは身体を滑らせるように外に出る。それに習うようにルフィアたちも、『D・E』の大地に降り立った。
「どうして……」
 息を呑んで呟く声が聞こえ、ティアレイルはそちらに目を向けた。
 少女の瞳が哀しげ自分を見やり、桜色の唇を震わせていた。雪のように白い肌が、僅かに青ざめて見える。
 その真意を確かめようとティアレイルが一歩を踏みだした時、それを遮るように精悍な顔つきをした若い男が、少女を自分の背後に下がらせた。
「……4人か」
 男はティアレイルたちを眺めながら呟く。少女を幽霊には近付けたくないという意思表示であったろうか、少女はすっぽりと男の影に隠れて見えなくなった。
「俺たちに何か用か?」
 アスカは男の前に立ち、そう聞いた。
 男は眉を上げると、憮然としたように腕を組み、鋭くアスカの面を睨みつけた。
「それはこちらの台詞だな。何のために、おまえたちは裏側からやってきた? 時おり流されてくる者はいる。けれどおまえ達は違う。こちらに来ようという明確な意志をもってやって来たように見受けられる」
「友人を探しに来たのさ。こっちに飛ばされたらしいんでね」
 アスカは相手の目を見返しながら、軽く応える。
「……嘘だな」
 男は眼光をさらに磨き、アスカを見据えた。
 レミュールのどこから来ようとも、必ず最初にこの『トリイの町』に辿り着くよう、アルファーダには結界が巡らされている。
 それは、アルファーダの中心である大陸に『幽霊』の侵入を防ぐために、自分がイディアに頼み込んでやってもらったことだ。
 そして彼はその関門とでもいうべきこの、トリイの町の守り部なのである。アスカのいう『友人』が本当に存在するのならば、それを自分が見落とすわけがない。
「嘘じゃないさ」
 アスカは男の眼光を軽く受け流すように、いつもの余裕綽々とした笑みを刻んだ。
 そのあまりに軽い受け答えに、男はムッとしたように眉を上げた。
「……左京さま。その人は嘘をついていないようです。もしかしたら、大陸に直接飛ばされたのではないでしょうか?」
 囁くような少女の声に男は軽く唸った。結界をすり抜けて、直接イディアのいる中央大陸に幽霊が入るということは、にわかには信じられなかった。
 けれど、この少女がそう言うのであればそれは真実に違いない。この少女……小夜は、この神聖なる島の巫女なのだから。
「……だからといって、よく平気な顔で探しに来れるものだ。裏側の者たちはよほど神経が図太いのか、それとも能天気なのかどちらかだ」
 精悍な頬に苦い表情を刻み、吐き捨てるように呟くと、左京と呼ばれた男は横を向いた。
 自分達『幽霊』が、このアルファーダに何をしたのか少し考えれば、のこのこ人探しにやってくることなど出来まい。そう思うと腹が立った。
「あの……さっき、たまに流れてくる者がいるっていいましたよね? それは、レミュールの人?」
 セファレットはすみれ色の瞳を男に向け、おずおずと尋ねる。二重結界を越えて、レミュールの者がこっちに流されるとは考えにくい。
「そうだ。何十年かに1・2度、流されてくる者が居る。……それはこちらとあちらを隔てる結界が張り替えられる時だと、あの御方はおっしゃっていたが」
「その人たちは?」
「……今はもう居ない。レミュールの人間は、こちらで長く生きることは出来ない」
 左京はあっさりと言った。
 レミュールでは、こちらは『危険な環境』であると言われていた。それがやはり正しいのだろうか? セファレットは考えるように俯いた。
「我々はレミュールの人間を歓迎しない。殺すことはしないが、守ることもしない。だから長くは生きられない」
 じろりと4人を見回し、左京はわざと憎しみを込めて言う。
 昔カイルシアたちがこちら側にしたことを考えれば、そういった警戒をされるのも当然だろうと、彼は暗に語っていた。
「それなら、どうして私たちを引き寄せたの?」
 先ほどイファルディーナをこちらに引き寄せられたことを思い出し、ルフィアは左京を見つめた。
 歓迎しないなら、そのまま居なくなるまで放っておけばよかったのだ。
 その真摯な強い眼差しを受け、左京は軽く頭を振りながら深い吐息をもらした。
「おまえたちを、そのまま放置する訳にもいかないだろう。……それに、気になることがあったから呼び寄せた」
 そう言うと、左京はティアレイルに視線を向けた。
「 ―― っ!?」
 ティアレイルはぎょっとしたように目を見開いた。
 左京の後ろにいたはずの少女が、いつの間にか最も離れていた自分の隣に立っていた。白く細い指が、自分の腕をしっかりと掴んでいる。
 腕を掴まれるまで、ティアレイルは少女の気配にまったく気付かなかった。
「何故あなたは幽霊なの? あの御方に似た感覚を持つ人が……何故?」
 そんなの理不尽だわと、少女は責めるようにティアレイルを見やる。自分の敬愛する存在に、どうしてこんなにもその感覚が似ているのだろうか? それを見極めるように、小夜はじっとティアレイルの翡翠の瞳を覗き込んでいた。
「私は……私だ。それをそんなふうに言われるのは、不愉快だ」
 ティアレイルはざわつく神経を必死に抑え、少女の腕を振り払った。
 個々の人間が持つ気配。感覚。それはその人の存在そのものをあらわす生命の波長だ。それが誰かに似ているなどと、言われて嬉しいものではない。ましてや、それを責められるのは筋違いも甚だしい。
 しかし ―― 手を振り払ったのはそれだけが理由ではなかった。恐ろしかったのだ。あのまま少女と対峙していることが。
 この少女に自分の心奥までが見透かされてしまうのではないか……。彼女の澄んだ黒い眼差しが、ティアレイルはこわかった。
「…………」
 小夜は傷付いたようにあとずさった。
 黒珠のような瞳がみるみると潤み、切なげに伏せられる。あまりに哀しげなその姿に左京は優しく彼女を抱き寄せ、そしてティアレイルを睨み据えた。
「……あの御方がいなければ、この神の島はとうの昔に死んでいた。我々にとって、あの御方は特別なのだ。それに似た気配を持っている存在がいれば、不思議に思うのは当然だろう? それが『幽霊』ならば尚更のこと」
 やはり、どこか責めるような口調だった。
 ただ、責める理由は小夜とは違っていた。小夜は同じ感覚を持っているティアレイルがどうして幽霊なのか。それが切なくて哀しい。そんな口調だった。
 それに対して左京は、幽霊のくせに同じ感覚を持っているのは許せないと言いたげなのである。
「そんなこと……私は知らない」
 ティアレイルには珍しく、相手から目を逸らして小さく呟く。
 まるで自分が『あの御方』という人間の複製品のように言われるのが我慢ならなかった。けれど、なぜだかそう言い返すことが出来ない。
 この二人が持つ自分への感情に、心が引きずられるような気がした。
「俺は『あの御方』って奴を知らないけど、逆だって言えるんだぜ。何でこんなにティアに似た感覚の奴が、D・Eなんかにいるんだろうってな」
 アスカはわざと『D・E』という単語を使ってみせた。こっちの本当の名称を知らないからでもあったが、『幽霊』という言葉に対抗する意図もあった。
 一瞬、左京の瞳に殺気が走る。自分の大切なものが侮辱されたような気がして、許せなかった。その眼光だけで射殺せそうな強い眼差しをアスカに向ける。
「同じだよ。大切な存在をあんなふうに言われたら、誰だって腹が立つ」
 アスカは晴れた夜空のような両眼で左京の刃のような視線を受け止めると、僅かに口許を歪めた。
「…………」
 左京は、ぐっと言葉に詰まったように下を向いた。アスカの言いたいことは理解できた。しかし、理解できると納得できるは違う。
 彼は必死に自分の感情を押し殺すように、強く唇を噛んだ。
「 ―― ! 左京様、夜が明けます。島民たちが起きてくる」
 少女はハッとしたように、男の顔を見上げそう囁いた。
 夜が明けると言っても、今まで夜空だったわけではない。青い青い天空は変わることなく頭上に在り続ける。
 ただ、風の匂いが変わった。そして、柔らかな涼風がいつもの乾いた風になる。
 それが、このアルファーダにとっての夜明け。イディアの『涼風の吹く夜』が終ったという合図だった。
 そうなると人々は目を覚まし、新しい一日を営み始めるのだ。
「……おまえたちを島民に会わせるわけにはいかない。このまま帰らないと言うのであれば、身柄を拘束させてもらう」
 左京は表情を消し、四人に告げる。
「それは、監禁するということか……?」
 そんなことをしている暇はない、そうティアレイルは思った。
 月がレミュールに落ちるのを阻止するために、自分はD・Eに来たのである。悠長に監禁などされていては変えられる予知も変えられなくなる。
 ティアレイルには、紅蓮の炎に焼かれる人々の姿がまだ、はっきりと見える。それは、変わらない未来の確約だった。
 予知した未来図が少しでも乱れてくれば、予知が変わる可能性が出てきたということなのだが……。
「……おまえたちは危険だ」
 そう左京は呟くと、すっと右手を上げる。
 穏やかに凪いでいた波が、4人を取り巻く柱のように立ち上がった。
「先ほどの風陣のように、簡単に破れるとは思うなよ」
 左京は小夜と共に、4人を取り巻く術を紡ぐ。彼らは本気で、ティアレイルたちの身柄を拘束するつもりのようだった。




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