降り頻る月たちの天空に-------第1章 <2>-------
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 魔術研究所の建造物『中央聖塔』の最上階にある総帥室の前にティアレイルが立つと、彼が声をかけるよりも早く、魔術を施された封印が解かれて扉が開いた。
 ティアレイルが来るのを見ていたかのようなタイミングで開いたその扉に、自分が監視されていたような気がして、一瞬不快げな表情が浮かぶ。
 しかしすぐにその不快さを押し隠し、ティアレイルは総帥室に足を踏み入れた。
「ロナ総帥、私をお呼びだとか」
 総帥室に集まっていた面々がざわめくのも気にせずに、ティアレイルは総帥の座るデスクに近付いていく。
 まだ若いようにも、そして、年老いているようにも見える年齢不明のその男が、魔術研究所の現在の総帥ロナ=ラスカードだった。
 これで見えているのかと不思議に思う白色の瞳が印象的な、穏やかな紳士である。
 総帥は軽くティアレイルを見やると、椅子から立ち上がった。
「今回の事態を予知出来なかったことについて、君からこの議会の方々に説明してもらおうと思って呼んだのだよ、ティアレイル大導士」
 流れるような金糸の髪をかきあげながら、総帥は集まった人間達に視線を向ける。
 ティアレイルは男達を振り返った。
「総帥である私ではなく、魔術派の象徴と言われる君の意見が聞きたいそうだ」
 総帥は何故か楽しげにティアレイルの耳元にささやいた。
 現在ティアレイルは、『大導士・導士・術士・術使』という魔術者の中で最上位にある『大導士』称号を持ち、また、魔力の強大さとその人格から『象徴』と呼ばれて敬われていた。
 民衆からの支持と人気は、総帥である自分をはるかに凌ぐだろう。その天才的な大導士がどう弁明するのか、ロナはそれが興味深く、そして楽しみだった。
 ティアレイルは軽く呼吸をつくと、議会の人間を見回した。
 その中で、落ち着きなくやたらと手を動かし、視線を避けるような素振りを見せる壮年の男が目に留まる。
 普段ならここぞとばかりに魔術派を非難するはずのその男が、気まずそうに黙っているということが癇に触った。
 記憶のページをめくりながら、その男が『科技研出身の政治家テクノクラート』だということを思い出し、ティアレイルは冷笑を浮かべた。
 沸き上がる侮蔑の念を抑えつつ、彼はすぐに普段の柔らかな表情を作り上げる。
 その上で、自分の倍以上は年をくった議会の人間たちの前で憶するふうもなく言葉を紡ぎ出した。
「夜が明けないだろうということを、私どもは知っておりました。それを皆様に告知しなかったのは、確かに魔術研究所の落ち度です。申し訳ございません。……ですが、この件は我々ではなく科学技術研究所の方々の仕事であると判断したため、対策を講じることを差し控えさせていただいたのです。あちらの立場もありますので、我々がでしゃばった真似をするわけには参りません。分かっていただけますでしょうか、トラスト閣下?」
 人の悪い笑みを浮かべて、ティアレイルは科技研出身の男に呼び掛けてみせる。
 トラストは一気に汗が吹き出すのを感じ、その汗をしきりにハンカチで拭いながら、小生意気な『若造』を見やった。
「……い、いや、な……その、天変地異に対する対策にかけては、魔術研究所の方が専門であると思うのだが……」
「天変地異ですか。確かにそれならば私たちが専門ですね。ですが、今回のことは本当にそうでしょうか、トラスト閣下」
 嘲るように翡翠の瞳を細め、ティアレイルは男の目を見つめ返す。
 鋭く冷たい光を放つその瞳に見据えられて、トラストは射竦められたように動けなくなってしまっていた。
 ―― だから嫌だったのだ。
 トラストはここに自分を連れてきた仲間を恨むように、そう心の中で呟く。『明けない夜』が天変地異などではないと知っている自分が抗議の列に加われば、科学派嫌いで知られるティアレイルがどんな態度を示すのか、トラストは悟っていた。
 それなのに、魔術研に対して抗議するのだから、相反する科技研のことを良く知った人間を連れて行ったほうが有利かもしれないと勝手な理由をつけて、無理やり議員仲間達が自分を連れ出したのである。
 普段ならそれに喜んで参加する。けれど、今回のことに関しては自分が行っても不利でしかない。トラストにとってはいい迷惑だった。
 しかしこの緋月の秘密については、科学・魔術の両研究所にとって共通の秘密だったはずだ。そのことを思い出し、トラストは助けを求めるようにロナに視線を送った。
「ティアレイル大導士、あまり年上の人間をからかうものではないな。トラストさんも困っているじゃないか」
 ロナは子供の悪戯の後始末をする親のように軽く息をつくと、若い大導士に声をかけた。
 無用な混乱を招くな、そうロナの表情は語っていた。
「…………」
 ロナは、ティアレイルが何を考えてこのような言動に出たのか理解しているつもりだった。自分も若い頃は嘘が許せなかった覚えがある。恐らくティアレイルもそうなのであろうと思った。
 天才には潔癖すぎるという欠点があるようだ。ロナは若い大導士を眺めながら、内心苦笑する。
「……そうおっしゃるのであれば、私に説明できることは何もありません。あとは総帥が御自由にどうぞ」
 そんな総帥の心を感じ取り、ティアレイルはポーカーフェイスな彼には珍しく、明らかに憮然とした表情を浮かべて言い放った。
 そんなふうに思われるのは心外だった。
 確かに秘密を明らかにしたいがために、今回の事故に対して何の策も打たなかった。だがそれは嘘が許せないとか、潔癖だからなどという、そんな安っぽい正義感が理由ではない。
 秘密を明らかにし、人々の魔術・科学の両アカデミーに対する盲目的な信頼を崩し、その限界を理解させることが、昨晩自分が予知したことへの対策につながる。そう思っての決断。
 昨日のうちに予知を総帥に報告していれば、おそらく秘密を明らかにすることなく、情報操作によって『明けない夜』の理由をつくりあげたことだろう。だからこそ、自分は予知した内容を誰にも話さなかったのだ。
 だがそれ以上に、魔術派の頂点であるはずの総帥が、あの大きな禍の気配に気付いていないのだという事実に、ティアレイルは腹が立った。
「では、失礼します」
 ティアレイルは無表情な笑みを端整な口許に浮かべると、ざわめき始めた議員達には目もくれず、総帥室から出て行ってしまう。
 ロナは軽く溜息をつくと、顔におおいかかってくる金糸の髪をうっとおしげにかき上げた。
 若い大導士の残していった波紋を治めなければならないが、それは骨の折れることであるように思われた。
 しかし……とロナは考え込んだ。最後に大導士が自分にちらりと見せた、あの攻撃的な表情にはいったいどんな意味があったのだろう? 普段は穏やかな人柄で知られている彼なのに ―― 。
「 ―― !?」
 刹那、激しい目眩にも似た衝撃を感じ、ロナは体を支えるようにデスクに両手を突いた。
 その衝撃は確かな意識となり、ロナの脳裏に、地獄のような光景を鮮明に映しだした。それは、あまりに惨い光景。生命という生命のすべてが……紅蓮の炎の中に消えていくのだ。
「……そうか。彼は既にこれを予知していたのだな。だから、か」
 先程の大導士の、彼らしからぬ言動の全てが今ようやく理解出来たというように、ロナはその瞳を沈痛な色に染めた。
 その絶大なる魔力は多くのことをティアレイルにおしえてくれる。しかし、何もかもが見え過ぎてしまうというのは、本人にとっては不幸なことに違いない。
 なまじ予知した災いを取り除けるだけの強大な魔力もあるために、背負ってしまうものも大きいのだろう ―― 。
「彼は……少しあいつに似てきたな」
 数年前に突然の狂気に身を堕とした友人を思い出し、ロナは微かに溜息をついた。窓の外に目を向けて、ティアレイルの髪を連想させる月たちを眺めやる。
 『蒼月』は既に西の空へと沈み、本来なら今が朝であることを如実に物語っていた。
 しかし天空は深い闇に覆われたまま、『古月』と『緋月』の二つの月の輝きを阻む太陽の光はまったくない。
「 ―― 世に『三月みつき』生まれる。そのもと、人の過失あやまちなり。三月乱れれば天が落ち、すべての生命を押し潰す。均衡を乱すことなかれ ―― か。どうやらその均衡を崩してしまったらしい。また人の過失なり……か? 愚かな生き物なのかもしれないな、我々人間という奴は」
 ロナは〈古月之伝承〉の一部を思い出しながら、心の内でそう呟く。
 それは、魔術研究所と科学技術研究所の二つの最高責任者にのみ伝えられる『創世』の伝承。
 数百年前に起きた『事件』。その隠された事実が、古月之伝承には克明に記されているのである。
「ティアレイル大導士には、話しておいた方がいいかもしれないな。……次期総帥ということなら、ルナは何も言うまい」
 科技研総統の名前をポツリと呟いてから、ロナはふと、この部屋に議会の人間達がいたことを思い出した。
 議員達はティアレイルの言葉に動揺し、出て行ったドアを見やっては各々騒いでいるだけだった。
 ロナが考えに沈んでいたのは、ほんの一瞬であったらしい。
 そのことにほっと呼吸をつくと、ロナはどこか威厳のある微笑をたたえ、議員達に声をかけた。
 自分やティアレイルが予知した未来よりも、今は、彼らが納得できる『嘘の釈明』をして安心させてやらねばならなかった。
「途中で退座した彼の非礼は、若さゆえの血気とお許しいただきたい。また、今回の天変地異についてはティアレイル大導士に変わり、私から説明させていただく」
 ロナはそう口火を切った。
「未だに夜が明けないことに、大きな不安を抱かれていることと思う。だが、これは天変地異などではなく、単なる天体の悪戯というべき現象であり、恐れることではない。その点では、確かにティアレイル大導士の言う通り科技研の領分に近い現象ではある。彼が科学派の仕事と判断し、皆に『告知』をしなかったのも、そのためだろう」
 ロナは自らの魔力で張ったスクリーンに天球を映し出すと、夜が明けない現象に付いて説明を始めた。
「これは、数百年前にも観測された『日蝕』という現象で、この惑星にある三つの月が太陽軌道と重なり、太陽光が遮られるかたちになっているに過ぎない」
 ロナは言いよどむこともなく、微笑を浮かべたままそう断言する。
 日蝕がこの惑星で見られなくなってから、既に数百年が経つ。それ故に日蝕という言葉は人々に馴染みがなく、また、詳しく知る者はいなかった。
 もし日蝕を熟知している人間がいれば、何十時間も続く日蝕があるなどと、バカバカしくて笑い出したに違いない。
 が、普通の者が言えばかなり無理があるその説明も、ロナにかかればたちまち『真実』になってしまうのが不思議だった。
 何歳なのか分からないと言われるロナの、若々しくも成熟した不思議な口調は、嘘を嘘だと思わせない奇妙な凄味がある。
 淡々と紡がれていくロナの言葉に、真実を知っているトラストでさえ、思わず本気にしそうになった程なのだ。
 さすがは総帥と言うべきか、ティアレイルの投げた波紋は、見事ロナの口先三寸で治まってしまったのである。
 議員達は身動ぎもせずに説明に聞き入っていたが、ロナが口を閉ざすと、それぞれほうっと深い呼吸を吐きだした。
「これで安心した。大げさに言えば、この世の終りと思っていたのだよ」
 グレーのスーツを着た壮年の議員は、そう言いながらロナに握手を求めてくる。
 ロナはにこやかにそれに応じると、まだ調べることがあるからと、丁重に議員達を送り出した。
 彼は先程予見した地獄を回避するために、科技研の総統に会う必要があったのである。
 ティアレイルのこと、そして〈古月之伝承〉のことを相談しなければならない。
 しかし議員達はそんなこととは少しも思わず、安心したような表情で魔術研究所の中央聖塔を出て行った。
 ロナはそのまま出掛けようとして、ふと、足を止めた。
「こんな時期に総帥不在はまずいか……」
 苦笑するように、彼は金糸の髪を一本抜き取った。それはゆらゆらと床に落ちながら、柔らかな光を発し、総帥の姿を形取っていく。
 鏡の中から切り取ったようなその『姿』は、ロナ本人がよくやるように、デスクに片肘を付きながら窓の外を眺めやった。
 それは、ロナの『残像かげ』。しかも、ロナとしての意識さえも持っている。誰かが話し掛ければ、きちんと応対もしてくれるだろう。
 ロナは満足そうに『それ』を見やると軽く笑みを浮かべ、総帥室から姿を消した。


 絶え間なく電子音が鳴り響く部屋で、人間たちが慌ただしく動き回っていた。
 一向に緋月を作動させられないことに焦りを通り越し、科学技術研究所の所員は、一種恐慌状態に陥っていた。
「落ち着きなさい。そんなふうでは、まともな仕事は出来ないわよ。それに、緋月を直接作動させに行くのだからもう心配はない」
 赤と黒のスーツを見事に着こなした艶やかな女性が、所員たちを叱咤激励するような凛とした声を上げる。
 白珠のようなその美貌に浮かぶ冷静な表情が、所員たちには心強かった。
 この女性が、科学技術研究所の総統ルナ=ラスカードだった。
「高速シャトルの準備OKだそうです。緋月到着は一時間後の予定。ルナ総統の許可があり次第、発進するとのことです。宜しいですか?」
 オペレーターは確認を取るように、総統を見やる。
 彼女はそれには応えずに、手元のキーを軽く叩くと、シャトルに乗り込む所員をメインスクリーンに映しだした。
「総統、何か?」
 乗っていたのはショーレンだった。普段どおりのラフな格好をしたままだということがとても彼らしい。そう思い、ルナは思わず笑みを浮かべる。
 ショーレンにとっては、シャトルを操縦するのも車を運転するのも、なんら変わりがないようであった。
「君なら間違いはないと思うけど、気を付けて行きなさい。今は『ふつう』じゃないからね」
 その言葉にショーレンはニッと笑うと、軽く親指を立ててみせた。
「あの正体不明の『ちから』のせいで、宇宙に出たら連絡は取れませんけど、気楽に待っててくださいよ」
 そうルナに言うとオペレーターに視線を向ける。発進する、の合図だった。
 オペレーターは承知したというように頷くと、シャトルの自由を拘束する固定装置ジョイントをすべて外した。
「カウントダウン省略。リーファスセレイア出港する」
 ショーレンはそれだけ言うと、軽飛行機タイプのスペースシャトルを発進させる。
 僅かな滑走路を経て上昇を始め、そのまま加速をかけたシャトルは、みるみる視界から消えて行った。
「相変わらず豪快な……」
 同僚たちはショーレンの豪快な操縦に賞賛とも呆れているともつかない溜息を吐くと、空の彼方に消え行くシャトルを眺めやる。
 そんな所員たちの肩を軽く叩きながら、ルナはあざやかな笑みを浮かべてみせた。
「ほら、君達は『波』について調べるの。地上で出来ることをなさい」
「あ、はい」
 ぼうっとシャトルを眺めていた所員たちは、総統の言葉に慌てたように動きだす。
 普段ショーレンが管理しているこのメインコンピュータールームを、一時的に預かったウィスタード=ラシルは格別張り切っているように見えた。
 そんなウィスタードに微笑ましい表情を浮かべていたルナは、不意に、誰かに呼ばれたような気がして振り返った。
「………」
 そこには誰もいなかった。しかし彼女には分かった。『あの男』が来たのだ、と。
 ルナはウェーブのかかった金色の髪を無造作にかき上げ、軽く舌を打った。
「まったく、科技研には来るなって何度言ったら分かるのかしら」
 怒っているというよりは呆れたような口調でそう呟くと、ルナは踵を返して総統室に向かう。
 一応『敵対』しているのだと言うことを、あの男は一向に気にしないのだ。ルナは深く溜息をついた。
「ロナ、どうしてここに来るのよ」
 総統室に入るなり、視界にとびこんできた魔術研究所総帥の顔に、思わずルナはそう言った。
 ロナは僅かに苦笑を浮かべながら、ゆったりとくつろぐようにソファに座っていた。
「まあ、私にもいろいろ事情はあってね。家に帰るまで待つ時間はなかったのさ。今日は帰ってくるかも分からなかったし」
 その余りにおおらかな態度に、ルナは怒るのも馬鹿らしくなったのか脱力したように息をついた。
「……まあいいけど。お互い所員に見られたらパニックものよ。魔術研と科技研の責任者が二人、仲良く肩を並べてるんだから。そんなの所員たちにしてみれば、年に一度『創世記念』のセレモニーの時ぐらいなんだから」
 応接セットでお茶を入れながら、ルナは楽しげにそう呟く。
「家ではいつものことだけどな」
 にっこりと、ロナは笑って見せた。
 彼のフルネームはロナ=ラスカード。そして彼女はルナ=ラスカード。それを見れば二人が同姓だということに気付く。
 それもそのはずで、二人はれっきとした兄妹なのだ。
 ただ、二人は顔がまったく似ていないということを好都合に、兄妹であることを隠していた。それは、互いに違う『派閥』を選んだからだった。
 彼らが若い頃。数十年程前は、魔術派と科学派の確執は現在より更にひどく、同じ家の者が異なるアカデミーに入ることは禁忌とされていたのである。
 今でこそ、もうそんな確執はなくなっているものの、お互い最高位に就いてしまった手前、今更公表するわけにもいかなくなっていた。
 ラスカード姓はそう多くはなかったが、珍しい姓でもない。だから周囲もさして気にしてはいなかったのである。
「それで、どんな用があるのかしら?」
 ルナは兄にティーカップを手渡しながら、自分もソファに身を沈めた。
「うちの大導士が、地獄を予知した」
 ロナは言葉の内容とは裏腹に、紅茶の香りを楽しむような表情で、そう呟いた。
「大導士って、ティアレイルくん? あの子が地獄を予知したから科技研に来たってことは、うちが起こす災害なの?」
 二十歳を過ぎた男をつかまえて『あの子』呼ばわりもないものだが、ルナはいつもティアレイルをそう呼んだ。
 年齢不明といわれるロナと同じく、彼女もまた、外見どおりの年齢ではない。ティアレイルが生まれた頃は既に彼女は科技研にいた。そんな彼女には二十歳そこそこのティアレイルなど、確かにまだ『あの子』なのかもしれない。
 ロナはその呼称に僅かな苦笑を浮かべたが、言葉にしたのは別のことだった。
「いや、そうじゃない。恐らく古月之伝承に関わりがあると思う。世に『三月』生まる……というくだりがあっただろう?」
「まさか……均衡が?」
 驚愕したように、ルナは兄を見やる。ルナとて伝承を忘れたことなどない。もしそれが本当なら、確かに地獄であるに違いない。
 均衡が乱れれば天が落ちる。その詳細は伝わっていなかったけれど、大惨事を意味するものには違いないだろう ―― 。
 その伝承を単なる『迷信』として片付けるには、彼らは『魔術者の予知』の信憑性というものを知り過ぎていた。
 ロナは軽く頷くと、組んでいた足を下ろし、身を乗り出すようにテーブルに手をついた。今までの穏やかさを打ち捨てたように、その瞳は真剣さを帯びていた。
「ルナ、このことをティアレイル大導士に話そうと思うんだ。彼は昨日の時点で月の異変に気付いていたらしい。彼が伝承を知れば、何かしら手を打てるだろう」
「じゃあロナは引退して、ティアレイルくんを総帥にするのね?」
 ルナは切れ長の瞳を僅かに細め、背もたれに寄り掛かるように腕を組んだ。
 この伝承は、両アカデミーの最高位に就いた人間だけが知る権利を有している。それを確認するつもりだった。
「いずれはな。……だが今の彼を総帥職に就けたら、きっと潰れる。私と違って彼は真面目すぎるからね。彼にはまだ経験と楽天さが足りない。それ以外は私を遥かに凌ぐ魔導士なのだがね」
 溜息をつくように、ロナはいささか年寄りくさい論評をした。
 総帥というその責務の重さに耐え切れず、心を壊してしまった優秀な導士が今までに何人もいる。
 その最たる者は、自分の前に総帥だった導士。自分にとっては親友だったあの男だろうとロナは思う。
 ティアレイルの能力を見出し、この魔術研に連れてきたのも前総帥で、ティアレイルはそんな彼を心から尊敬し、とても慕っていたものだ。
 それを知っているだけに、ロナはティアレイルに同じ轍は踏ませたくなかった。だから、今はまだ総帥職を譲ることは出来ない。もう少し成熟し、心にゆとりが生まれるまでは ―― 。
「分かったわ。そこまで言うなら、ロナの好きにしてくれて構わないよ」
 ルナは誰もが見惚れそうなあざやかな笑みを浮かべ、そう告げる。基本的に、彼女は兄の言葉に反対することはない。
 しかも、今は亡き友人に対する思いと、部下であるティアレイルへの思いは、その口調からいやというほど伝わってくる。そんな言葉に反対できるわけもなかった。
「すまないな」
 ロナは静かに笑み、そして再び落ち着いた様子で紅茶を口に運ぶ。
 刹那、耳障りな警報が二人の鼓膜をたたいた。
 それと同時に、顔を蒼白に染めた女性が総統室に駆け込んで来る。
 入ってきたのは、ルフィアだった。ルフィアはいつもの毅然とした彼女らしくもなく、今にも泣きだしそうな表情で、肩を震わせてさえいた。
「ルナ総統……リーファスセレイアが……ショーレンの乗ったシャトルが……衛星軌道上で爆発しました!」
 それは、余りに急な悲報だった。科学派の技術の粋を尽くした宇宙船。しかも、開発者はルシファーナ=イスファルその人であったのだ。そんな事故が起こることは、あり得なかった。
「……まさか」
 あまりの衝撃に、ルナはそれ以上何も言うことが出来なかった。




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